甲南山岳会名誉会員平井一正先生の1999年8月の遠征のエッセイです。
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スワート・ヒンズークシの山旅
センチネル峰(5260m)登山反省
センチネルという山はあまり知られていない。初登頂はかなり昔らしいが、米山さんが
現地旅行社からきいてきて、今回の目標とした。写真もなく、現地に行くまで同定が
できなかった。ナルタル谷コルから雪の斜面が続いていて登頂は容易という情報が唯一の
手がかりであったが、これは事実ではなく、ナルタル谷BCから急激に高度をあげる登路は、
オーバー60にはつらい登山であった。
今回の山は高さこそ低いが決して侮るまいぞ、と自戒しながらも、雨宮さんから「先生は
チョゴリザ以後まだヒマラヤの頂上を踏んだことはないでしょう、ぜひ登りましょう」と言われ、
なんとかして登りたいと思った。しかし結局高所順応の失敗と順応機能の減退を身をもって
体験し、いい勉強になった一面、悔しい思いをした登山であった。
ギルギット(1485m)から、3145m、3635m、4150m(BC)と高度をあげ、一日
BCで休んだ次の日に4770mのC1にあがり、そこで泊まった。本来ならC1まで一日
往復してその高度に体をならしておくべきであったが、日数の余裕がなかったため、
はじめての高度では泊まらないという高所登山の原則を破ったツケは大きかった。
結局血液の酸素飽和濃度が極端に低下し、センチネル登頂は諦めざるをえなかった。
普通こういうときは、やりなおしたらうまく順応できるのであるが、余裕のないときは
それができない。高齢者は十分余裕をもって行くべきである。
68歳という年齢を考えて、もっと慎重に行動すべきであったことをいま反省している。
昨年バルトロ氷河にいったときは、徐々に高度をあげたために5千米のコンコルディアまで
平気であった。そういうおごりもあったが、高所順応は年とともにむつかしくなるということを
実感していなかった。
最年長で経験者という立場にありながら、橋田の高山病に関しても、もっと早期に的確な
助言をするべきであった。幸い事なきを得たからよかったものの、万一の場合は責任
問題である。すべてに反省することしきりである。
足と車で越えた峠
松や杉の林が続くナルタル谷は本当に美しい谷であった。秘境といってもいいだろう。
登山が終わった翌日に4450mのナルタル峠を越え、さらにパコール氷河の源頭を横断して
4650mのハユール峠を越えてチャトルカンドにおりた。徒歩で横断した峠の高さとしては
今回の最高である。ナルタル峠はゆるやかで広く、雪は西側にのみついていて、
牧歌的ですらある。ここの下りは、早朝のことでまだ雪が固く、重荷のポータは足を滑らし
難渋している。昔なら靴をくれ、雪眼鏡をくれとストライキの場面であるが、サーダの
統率よろしく、おとなしく荷物を運んでくれた。ナルタル峠から見るとハユール峠ははるかに
遠く感じる。やっとのこと着いたその峠は、三の窓を小さくしたような狭さで、雪もなく
荒涼たる峠であった。はるかかなたには奇妙な形の山波が迫ってくる。ガレ場をすこし
右側にトラバースして一気に谷を下ったが、行けども行けども下に近づかず、心身ともに
疲れた。宿泊地(3750m)は夏の放牧小屋の前の広場であったが、そこの住民と言葉が
通じず、かろうじてシムシャール出身のアリムサのしゃべるグジャール語でテントをはる
許可を得た。この人たちはイシュカシムの出で、ナルタル谷の人たちとは言語は異にする。
チャトルカンドでは米山さんに再会できたが、橋田の姿はなかった。ポータからもあの
チョタ・ラルカ(little boy)はどうしたときかれた。彼の健康管理も問題かもしれないが、
もっと気をつけてやるべきであった。
徒歩で越えた峠はここだけで、そのほか多くの峠を車で越えた。ベシャム(650m)から
インダス河と別れて、谷をひとつ入ったとたん、植生は一変する。日本の山のように木々は
密集し、川の水はすみ、乾燥しきったインダス流域に比べて生き返るという感じがする。
住民の家もトタン葺きで大きい。そのような道をスワートへ越える境界がシャングラ峠
(2000m)である。ここであった男の子のしゃべる言葉はプシュート語で、その昔ここが
スワート王国として独立していた片鱗が偲ばれた。スワート州のミンゴーラは、公園、
遊園地もあり、大都会である。この郊外には、三蔵法師の記録にもでてくるが、
その昔栄えた仏教遺跡が多い。
ディールからチトラールへはラワン峠(3100m)を越える。かなりの悪路でトラックは
息絶え絶えに登っている。ガイドのノウシャッドが、ディールまで乗ってきたトヨタの
ハイエースを、年代もののトヨタのランクルに替えた理由がよくわかった。途中に掘りかけで
中止になったトンネルがある。チトラールに抜ける唯一の道路であり、もっと整備できないかと思う。
高度のせいか峠は肌寒かった。ここからつづら折れの急峻な坂を下り、チトラール川にでる。
今回のハイライトであるギルギットとチトラールの州境のシャンドール峠(3500m)は、
本来ならチャトルカンドからジープで走ってきてここで泊まる予定であったが、道路が
決壊したために、ベシャムを回って反対側から登ることになったのである。前日に、
ディールからチトラールに泊まらず、マスツジまで飛ばしたために、往復が可能になった。
峠とはいうものの、湖もあり、広大な高原になっている。気持ちいいところだ。ここは毎年
7月7日、8日にはポロ競技の世界選手権大会が行われるという。厩舎も完備され、
今は無人だが観客席も立派なものがある。
カイバル峠(1072m)へは、鉄砲をもった警官の護衛付きで許可された。決して婦人の
写真をとってはいけないという条件もついてきた。しかし警官を必要とするような緊張した
空気はなかった。私は20年前に、ひとりペシャワールから乗合バスにのって峠を往復した
ことがある。実はそのバスは峠から少し下がったところにあるバザールまでであった。
当時私は、国境線が峠からはるか下にあるということを知らず、国境に立ったと喜んでいたが、
今回その誤りがわかった。今回はアフガニスタンを見下ろすところまで行けた。あそこが国境
という所はまだまだ先であり、パキスタンのトラックが何台も坂を下って行った。
警官は我々と食事を共にした後、上機嫌で別れた。
密造酒
昔からフンザパニ(パニは水の意)という名称で、禁酒国であるにもかかわらずフンザでは
密かに作られた酒があるということをきていた。しかし実際にはフンザだけでなく、スワートなど
奥地に行けば、ひそかに作られているようだ。私は5回もパキスタンに来ているが、
飲んだのは今回がはじめてであった。
チャトルカンドで久しぶりにくつろいでいた夕食後、ガイドのノウシャッドが満面笑みを
浮かべながら、ペットボトルに少量の液体を差し入れてくれた。彼が酒すきということは、
キャラバンの途中からわかっていたが、さすがである。表面では飲まないといっていた
ハイポータもコックも喜んで飲んでいた。しかしノウシャッドもホテルなど人目につくところでは
決して飲まなかった。
密造酒のハイライトはマスツジのほぼ100%に近い蒸留酒であった。宿舎の隣の一家の
子供を手なずけて仲良くなったせいか、夜おそくボトル1本の差し入れがあった。思わず
むせるほどの純度のいいすばらしい酒であった。私らは3倍にうすめないと飲めなかった。
ノウシャッドはこれとは別にまたマスツジパニを仕入れてきた。彼の鼻がいいのか、
この地域の特色なのか、私にとってはいままでにない経験をした。
これらの密造酒のおかげで、乏しいわれわれのアルコールが大いに潤い、旅を楽しいものにした。
ガイドのノウシャッド
ノウシャッド・カーン(Nowshad khan)と家族名にカーンがついているのは、一般に
アユブ・カーンに見られるように名家の出で、尊敬の対象になる。彼もそのような系統である。
彼は一般によくやってくれたが、ときに失敗し、またそれをごまかそうとしてぼけることがある。
いつか帰りのポータの人数のことで議論になったとき、どういうつもりかそれまでの英語が
突然ウルドウ語になり、我々をけむりにまいたことがある。8月14日のパキスタン独立
記念日には、きれいにひげをそるなど、なかなかのおしゃれでもあり、へその下の話も
すきである。映画「ナバロンの要塞」などにでてくるデヴィット・ニブンにどこか似ている。
ディールからチトラールに着いたのは11時45分であった。彼はいい場所で昼食をと、
バザールのはずれの大きなホテルに案内した。広々とした庭があり、昔の王の
ゲストハウスであった所だ。たしか受付の男が、1時にならないとできないというようなことを
ウルドウ語で言ったと思うが、ノウシャッドの顔もあり、もうひとつ確かめるのにためらった。
やはりいくら待っても何も出てこない。暗い食堂でそのうちに皆イライラしてきた。
これならローカルレストランでよかったのではないか、とノウシャッドに言ったが、
いまさら動けない。結局ここを出発できたのは1時45分であった。この日マスツジまで
いかなければならず、時間的に余裕がなかったために、昼食は早くできればどこでもよかった。
シャンドール峠からの帰途、適当なレストランがない。しかたなく、ブニゾム(6551m)が
望まれる道端の粗末な茶店で昼食をとったが、結構うまく、ハエが多いのをいとわなければ、
チトラールのホテルで出されたものと大差はなく、我々は満足であった。しかしノウシャッドは、
こんな粗末なところで、と次の日まで恐縮して小さくなっていた。ちなみにこのときの昼食代は、
7人(運転手も入れて)で300ルピー(900円)であった。
ホテルあれこれ
予定通り事が運んでいる時は、日パ旅行社があらかじめ予約したホテルに泊まるが、
予定が狂うとホテルの選定はガイドのノウシャッドがする。パキスタン観光省(PTDC)
直属になるホテルは、ギルギット、ベシャム、チトラールで泊まったが、いずれも清潔で
申し分なかった。ディールでは、車の中で米山さんがまさかあれではないだろうといっていた
ホテルが我々のホテルであった。しかし外見は粗末であったが、中はそうでもなく、イタリア、
フランスの観光客も多く泊まっていた。次の日のマスツジは寒村で、いいホテルがあるとは
思えなかったが、民家を改造した外人用のレストハウスがあり、花が咲き乱れる庭から
ティリチミールも見え快適であった。食事は外から運び、絨毯を敷いた床に寝袋で寝る。
シャワーはないが、私は一番の心地よさを感じた。夜中に用足しに起きたとき、パチパチと
大きな炎が空をこがし、動力の音と人々の声がこの世のものとは思えないほどであった。
遠くのようであったのでそのまま寝たが、朝聞いてみると、麦の取り入れを共同でやっているという。
何も夜中にと思ったが、それはそれで理屈があるようだ。
最低のホテルはペシャワールのGホテルであった。一応ガイドブックにものっているホテル
であるが、窓もなく、バスタオルもなく、請求してもなかなか持ってこない。なぜここを選んだのか。
旅も終わりなので、もうすこし気のきいたところに泊まりたかったが、ホテルの選定は旅行社と
ガイドに任せているので何ともしかたない。
カラコルムハイウェー
1986年ラワルピンディからフンジェラブ峠まで893kmが旅行者に開放され、それまで飛行機
でないと行けなかったギルギットやスカルドに行くのが容易になった。しかし今年は天候が不順
であったので、無駄な期待を抱かずはじめから車で行くときめていた。最初の日はチラス
(472km)で泊まった。ギルギットまであと137kmである。完全舗装であるが、ガードレールもなく、
運転をあやまればインダス河に真っ逆さまで、追い抜きには思わず手に汗がにじむ。現に後日、
米山さんが橋田を連れてここを通ったとき、夜、乗っていたマイクロバスとトラックが衝突し
危なかったときく。米山さんは車をのりかえながらイスラマバードに着き、橋田の帰国処置を
すませた後、再び取って返した。その苦労はたいへんなものであった。
スカルドへの分岐点の手前に、カラコルム、ヒマラヤ、ヒンヅークシの三大山脈合流点の碑がある。
そのヒマラヤの雄であるナンガパルバットは往くときは見えなかったが、帰りには雲ひとつない
快晴にめぐまれ、ルパール側、ディアミール側ともによく見えた。私にとって、この山を飛行機の
窓以外からみた最初である。
往路、ギルギット手前で道路に土砂があふれてブルドーザーが修復していた。道路の側壁は
草も木もないガラガラの岩だけの急斜面で、雨が降れば土石流が道をふさぐ。雨がふらなくても
道路に散乱する落石をみれば、側壁の不安定性がわかる。後日局地豪雨でカラコルムハイウェーが
寸断され、一時我々は退路をたたれて途方にくれた。チャトルカンドからグビスまでの道路が
決壊したのも集中豪雨による土石流のためである。
昨年スカルドから18時間かけてこの道をとばしたが、そのときのことが思い出される。
そのときの運転手ラシードに会えないかと期待したが、それは無に終わった。しかし昨年
バルトロ氷河でガイドを勤めて苦労を共にしたアリ・ムラッドに偶然にも会うことができた。
バルトロ氷河からゴンドコロラに行く19人のドイツ隊の一行と、あるレストランで一緒になり、
そこのトイレでばったり会ったのである。今度会いたいと思っていた人のひとりに会えて本当に
嬉しかった。
カラコルムハイウェーとは違うが、今年スカルドからトンガルへの道でジープが転落し、
日本人女性(ヒマラヤグリーンクラブ)がひとり死亡した。カラコルムの道は危険と紙一重である。
食事
車で走行中はガイドのノウシャッドが適当に食事の内容を注文していた。彼は常にナン
(またはチャパティ)、鶏(たまにマトン)カレー、トマト、玉ねぎなどの野菜、ダル(大豆)の煮込み
を注文する。これに冷えたミネラルウオータを飲む。これが昼と夜、連続でこのメニューが続いた。
旅の後半からその単調さに飽き、注文をガイド任せにしていたのを反省し、注文は我々が
することになった。その日から昼食には、マトンを油でいためてカレーをかけた鍋、串刺しの
チキンやマトンチカなどが登場し、一応の満足感を得た。これならチトラールあたりで、
鱒ぐらい食べられたかもしれない。
キャラバン中は、日パトラベル派遣のコック長、イブラヒームの腕になる食事である。たとえば
夕食の豪華な方としては、ロールとチキンとポテト、ヌードルスープ、チャオメン、マンゴー、
そしてデザート(8月5日)、粗末な方では、インディカ米、野菜カレー、大豆、チャパティ、
デザート(8月12日)などである。むやみにオクラを煮た料理が多く、またあまりうまくなかった。
朝はチャパティやプラタのほか、おかゆがでる。ただおかずがない。
幸い雨宮さん持参の佃煮や梅干しなどに助けられた。
C1からBCにおりてきたときの昼食は、ふっくらした揚げたてドーナッツ、キャベツのサラダ、
シーチキンという豪華版でうまかった。こんなうまいものが食べられたのは、
残念ながらこの日が最初で最後であった。
コックのイブラヒームは下山してくる我々をみて、BCからモレーンまで息せき切って、
ヤカン片手にジュースを運んでくれた。またポータ連中はサーダのアリを先頭にBC手前に
勢揃いして、登頂おめでとうという花でかざった首飾りを各人にかけてくれ、タイコ代用の
ポリボトルをたたいて歌をうたってくれた。胸暖かくなる思い出である。
ポータの選定
ギルギットから2時間半のところ(2500m)で道がくずれていて、ジープでは進めず、
以後は徒歩となるという情報を途中できいた。ナルタル谷の出会いでそれをきいた村人の中から、
ひとりの若者が現場までジープの先にぶらさがって便乗した。ポータ志願者である。道は悪く、
振り落とされそうで危険きわまりない。現場は近くの村からポータ志願者であふれていた。
ポータの選定はガイドにまかせて我々はサブザックで坂を登る。あとでガイドに選定方法を
きいたが、コイントスできめたという。全部で26人。便乗した若者は選にもれた。この近くには
下ナルタル村と、上ナルタル村の二つの村がある。両村公平にポータをえらび、サーダも
それぞれの村からひとりずつ選んでいる。前者からパキール・モハメッド、後者からは
ハヤット・アリ、どちらもさすがにインテリで話もわかる。特にアリはラホール大学の
土木工学科出身で英語もうまい。家の事情で村に帰ったという。
BCができ、米山、橋田が下山するので、ポータの数も減り、サーダがひとりというときも
コイントスで、どちらが残るかきめたという。なかなか公平な、文句のない選定方法で感心した。
その他ポータへの賃金の支払いもすべてガイドがやってくれる。昔はポータとの折衝はすべて
隊員の仕事であり、その苦労は大変なものであった。しかしその反面、ポータとの友情も生まれ、
地域の文化や知識の吸収や、ウルドウ語が上達する楽しみもあったが、それもなくなった。
今ではポータはサーブとあまり話さないし、縁遠くなった。そういうことではキャラバンの楽しみは半減する。
ハイポータ
私の知っているハイポータは、ルート工作はおろかザイルテクニックも下手で、サーブに引っ張られ、
単に高所で荷をかつぐという役割しかできなかった。そのため今回2名のハイポータを雇用する
ということには、正直抵抗があった。しかし時代は変わった。今回雇ったハイポータのひとり、
アリムサは、パキスタン山岳会、パキスタン冒険クラブのメンバーで、技術的にも体力的にも
すばらしかった。昨年G2頂上直下まで行ったという。もうひとりのグラムフセインは
マルチュー登山学校の出身で、技術的には少し劣るが、体力は抜群である。いろいろと話を
きいてみると、23年前私がシェルピカンリに行った時のローカルポータのひとりであったことがわかった。
だらしないことであるが、ふたりのハイポータがアイスフォールの登路をきりひらき、C1のサイトを
作った。荷物も彼らに運んでもらった。登頂は、このふたりのハイポータの援助なしには不可能
であった。恥をしのんで告白しておく。
年をとったから仕方ないという口実のもとに、人からの助けをすべて甘受してもよいのか。
登山という行為は自分と自然の対決であり、ぎりぎりまでに自己が試されるものである。
今回はその点も含めて自分に問われる登山であった。
テント地
今回の旅はその半分が車の旅であり、キャラバンの楽しみは少なかった。それでもナルタル谷
からチャトルカンドまで美しい花々が咲く谷を歩くキャラバンは楽しかった。
第一日目、本来ならば歩かなくてもよかったが、道路決壊のために半日余のキャラバンをする。
おかげでナルタル谷の美しさが満喫できた。上ナルタル村ではパキスタンでは珍しいスキー場を見た。
軍隊の訓練用だそうだ。スキーリフトもあり、初め見たときは信じられなかった。ナルタル谷には
美しい湖が二つある。そのひとつの下ナルタル湖の横にテントをはった。放牧用の石小屋もあり、
緑も多く、快適な所であった。日中はそうでもなかったが、日が落ちると寒い。夜はポータ達は
ダンスと歌に興じた。橋田は歌にあわせて踊り、特に頭にまいた布をとってそのクリクリ丸坊主を
見せてパフォーマンスを示すなどヤンヤの喝采をあびた。
夜中テントの横で、荷物運搬用に雇ったロバが鳴いて安眠を妨げた。小さい体で重荷を
かつぐという印象しかなかったが、ロバがこんなにやかましい動物とは知らなかった。
ロバは次の日も夜中さかんに鳴いた。長い歯をむき出して鳴く姿はかわいいという印象から
はるかに遠い。ヒマラヤというとヤクを使うというのが常識になっているが、ヤクを見るのは次の日、
高度3600mくらいからである。
BCではロバの鳴き声に悩まされることはなく、草や花の咲き乱れる気持ちいい所であった。
チャトルカンドのテント地は橋を渡ったところの広い土地の一面であった。実はこれはこの村の
支配者ミールの土地で、ヘリコプタの発着用の白いマールもある。われわれがテントをはり終えて
休んでいるときにそのミールがテントに現れた。黒いカイゼルひげ、労働を知らないようなやわな手足、
真っ白なシャロワーズ(服)、いかにも御殿様という感じである。よく冷えたミネラル水1本をおみやげにくれた。
奥さんがふたりいるという。見渡す限りの土地は彼の財産で食べることは心配ない。
こういうミールが今もいるということは驚きであった。
ナルタル谷であった外国人
ナルタル谷は美しい谷であり、トレッカーも多いときいていたが、バルトロ氷河ほどではなく、
比較的少ないといえよう。
ナルタル湖の近くで男3人、女1人のニュージーランド隊が、ガイドをひとりつけただけで、
荷物はすべて自分たちがかつぎ、我々を追い抜いていった。イシュコーマンに行くという。
我々は省みて恥ずかしかったが、年、年と自ら言い聞かせた。
上シャニのモレーンにはフランス隊がテントをはっていた。少し離れていたのでそのまま
行き過ぎたが、あとでアリムサが聞いてきた話では、センチネルに登ったあと、シャニピークに
登ったという。しかも登頂後パラグライダーで降りたという。シャニピークはそそりたつような
鋭い岩峰であり、どこにルートをとったのであろうか。
このほか下山してくる隊が1隊と、ドイツ人の家族連れの隊、それだけがこの谷であった外国隊であった。
( 平井 一正 )
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