わたしの夏休み
・・・56年ぶりの慰霊アルプス行・・・
松方 恭子
(故伊藤愿氏次女)
この夏休みは、私にとって生涯わすれられないものとなりました。
今年の私の夏休みは、1年半前からベルギーのルーベンというヨーロッパで一番古いカトリックの大学町に滞在中の娘一家が、主人と私の結婚40周年祝いに、「スイスにトレッキングに行かないか」と招待してくれました。日頃、ゴルフ、ジョギング、私たちが住むマンションや、マンションに隣接する駒沢公園、妹たちの家の庭などの園芸ボランティアをして、毎日身体を動かしている75歳の主人は、毎年、富士登山、東京シティマラソン(10km)も走ったりで足には自信があり、大喜び。娘一家も、親子でスポーツとアウトドアが大好き、次女も東京シティマラソンを3時間台で走る。では私は・・・・というと、大学時代はワンダーフォーゲルにしばらく在籍、歩くことが大好きです。子供たちが成長した後に50歳から始めたゴルフは、いつも乗用カートには乗らずに歩いて周り、買い物も30分ぐらい離れた自由が丘、都立大学まで、天気の時には駒沢公園、ゴルフ練習の帰りには、主人にクラブを預け、砧公園から歩いて帰るなどで、健康を保っています。私のトレッキング用の山靴も15年ぐらい前にオーダメイドしたものが古くなり、新しいのを購入、登山用ステッキも、現地で娘婿に使いやすく良いのを選んでもらい、いざ、ツェルマットへ。
ベルギーから車で先に着いていた娘一家が、ツエルマット駅で迎えてくれ、彼らがネットで探したというアパートメントホテルに宿泊。そこからは、ツェルマットの街や、ドム、ターシュホルンなど、ミシャベル山群が窓から見え、私がスイスに来たのは8回目でしたが、その素晴らしい景色は、いつ見ても感動でした。
若くして亡くなった父の葬式のときの写真は、スイスの美しいマッターホルンを背に、山の中腹の花畑の中に座った、嬉しそうな父の遺影でした。山登りで日焼けした顔は、昔の映画俳優の佐田啓二にちょっと似ていて、その若々しいままの姿は、母はもちろん私達の大事な写真です。
今回のトレッキングでは、その父が撮った同じ場所を探しに行きました。連日好転に恵まれ、カレンダーに写っているようなスイスの山々の抜けるような青い空、美しい牧草地、3,000m〜4,000m級の素晴らしい山のパノラマを眺望しながら、父が56年前に登って撮った背後に写っている方向のマッターホルンの岩肌の形の写真と手にしながら登っていくと、標高約2,000mのところで、その場所ピタリのところを、家族が見つけました。お花畑の中の岩に腰掛け、父の背後のマッターホルンの岩場と同じ形の方向に、焦点を定め、パチッ。
父は役人でしたが、高校(旧制甲南高校)、大学(京都大学)では山岳部の山行の費用に、親から毎月送られてくる下宿代を使ってしまうほどの山好き。運のよいことに、世界第2の高峰
K2(当時未踏)を目標としたカラコルム遠征計画で、今西錦司さんの要請を受け登山許可の申請や調査のために単身渡印したこともありました。昭和11年のことです。インド側から見たヒマラヤの遠望は、本人にとっては無上の喜びだったに違いないと確信します。残念なことにこの計画は、その後の戦争のため実現しませんでしたが、有名な今西錦司氏、西堀栄三郎氏は、父の大学の先輩で、昔、我が家にみえたことも、私の小さい頃の記憶にあります。
加藤泰安さんは、私たちの新大久保の家の近くにお住まいで、きれいで背の高いおば様は、私たち姉弟妹をとても可愛がってくださいました。泰安おじ様は、私が笑うと「君は愿そっくりだから、笑わないで!」と言われました。私が父によく似ていたので、父が居なくなったことを思い出されるのがいやだったのでしょう。
若き父を魅了したスイスの山々が、昔も今も変わらぬ美しい姿で私達を迎えてくれたことに、感謝。生涯心に残る、最高の夏休みでした。
孫と大好きな「Sound
of Music」を唄いながら、家族で楽しく登ったスイスの山々。大学時代からしばらく遠ざかっていた「登山」に回帰した私の夏休み。きっと父は、私が登って来るのをずっと待っていたに違いない、と確信した、56年後の慰霊登山でした。
(2007年9月)
伊藤愿氏 1951年 松方恭子さん 2007年
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