甲南山岳部・山岳会の歴史
2008年4月改
大正12年(1923年) | 旧制甲南高等学校(7年制)発足 |
山岳部の前身となった“遠足部”が香月慶太を中心に設立された。 | |
大正14年(1925年) | 遠足部を“山岳部”と改名 |
部員制を採用して岩登り、アルプス登山、積雪期登山など近代登山への道に進む。 | |
昭和初期 | 主に、槍、穂高、剣、後立山等北アルプスを活動の場とし、おりしも時代は、スポ−ツ登山の黎明期、 |
(1926〜35年) | 多くの学生クライマ−の輩出により、ヴァリエーション・ルートの開拓で幾多の輝かしい記録を残した。 |
昭和2年、「山岳部報告」創刊号を発刊。 以後、「部報」「部内雑誌」「時報」「山岳会通信」「山嶽寮」と変遷し、 |
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現在まで約100冊に至る出版物として引継がれている。 | |
昭和5年、山岳部のOB会として“甲南山岳会”が発足。 | |
昭和9年、治安維持法違反容疑で山岳部の主力部員多数が検挙され部活動は一時停止された。(白亜城事件) |
昭和初期の主たる登攀記録 | ||
昭和2年7月 | 小槍および北穂滝谷の遡行(単独行) | 伊藤愿 |
昭和3年5月 | 常念〜槍〜立山残雪期の幕営縦走 | 伊藤愿 辻谷幾蔵(RCC) 今田重太郎ら |
昭和4年5月 | 剣岳早月尾根〜八ッ峰下半部 | 伊藤愿 西村格也 |
7月 | 錫杖岳烏帽子岩 | 楠木義明 秋馬晴雄 水野健次郎 井上正憲 |
昭和5年7月 | 穂高ジャンダルム飛騨尾根(初登攀) | 伊藤愿 田口一郎 |
昭和6年3月 | 白馬鑓ヶ岳南山稜(初登攀) | 近藤実 田口一郎 西村雄二 |
白馬小蓮華尾根(初登攀) | 西村雄二 水野健次郎 多田潤也 | |
5月 | 鹿島槍ヶ岳東尾根(二ノ沢より)(初登攀) | 田口一郎 西村雄二 |
7月 | 北穂滝谷第2尾根(初登攀) | 田口二郎 関集三 伊藤新一 佐山好弘 |
8月 | 北穂滝谷第3尾根(初登攀) | 田口二郎 伊藤新一 |
これらの報告で滝谷の第1〜4尾根の番号をつけた概念図を始めて紹介した。 | ||
この番号が現在も使われている。 | ||
昭和7年3月 | 白馬南俣より牛首岳ダイレクト尾根(初登攀) | 田口一郎 松野茂雄 |
7月 | 前穂北尾根第4峰(初登攀)後に甲南ル−トと呼称 | 近藤実 山口良夫 |
8月 | 北穂滝谷第1尾根 A・Bフェイス(初登攀) | 伊藤新一 伊藤収二 |
ジャンダルム第1テラス北壁(初登攀) | 伊藤新一 伊藤収二 | |
昭和8年3月 | 不帰岳第II尾根(初登攀)後に甲南ル−トと呼称 | 田口二郎 伊藤新一 |
4月 | 鹿島槍ヶ岳東尾根(三ノ沢より)(初登攀) | 田口二郎 近藤実 伊藤新一 |
7月 | 剣岳チンネ北壁正面壁(初登攀) | 伊藤収二 比企能 |
昭和10年7月 | 鹿島槍ヶ岳北壁正面壁(初登攀) | 喜多豊治 植田忠七 |
剣岳池ノ谷剣尾根右俣奥壁(初登攀) | 奥山正雄 山口雅也 |
昭和10年代 (1936〜45年) |
昭和10年代前半までは引続き北アルプスのヴァリエーション・ルートの初登攀などに活躍するも、太平洋戦争勃発後、部活動は制約厳しく一時中断に至る。 |
昭和十年代の主たる登攀記録 | ||
昭和11年8月 | 剣岳・池ノ谷剣尾根ド−ム(初登攀) | 福田泰次 関暢四 赤松二郎 中村成三 |
昭和12年3月 | 杓子岳東壁(初登攀)(D尾根) | 山口雅也 福田泰次 |
白馬鑓ヶ岳北山稜(初登攀) | 喜多豊治 武田六郎 | |
昭和14年3月 | 穂高白出沢よりジャンダルム飛騨尾根 | 伊藤文三 福井實 |
7月 | 剣岳小窓尾根池ノ谷側バットレス(初登攀) | 赤松二郎 小川守正 福井實 |
昭和15年7月 | 北千島ホロムシロシュムシュ島遠征 | 中村成三 鷲尾顕 関暢四 赤松二郎 |
村上武雄 福田泰次 宇尾洋介 | ||
昭和16年3月 | 不帰岳第1尾根(初登攀) | 伊藤新一 小川守正 福井實 |
鹿島槍ヶ岳荒沢奥壁南稜(初登攀) | 伊藤文三 佐谷健吉(浪高OB) |
昭和21年(1946年) | 戦後初の山岳部の部活動が道場・百丈ヶ原で、秋には穂高涸沢合宿が行われた。 |
昭和22年(1947年) | 3月前穂北尾根を徳沢よりラッシュで登攀(小川守正、中村忠雄、奥田泰三、福井亨)、物資不足の下、 |
戦後初の本格的積雪期登山として注目された。 | |
昭和25年(1950年) | 学制改革による旧制高校の消滅、山岳部活動は一旦新制甲南高校山岳部に引継がれた。 |
昭和27年(1952年) | 甲南大学体育会山岳部発足、旧制高校山岳部の活動を継承し現在に至る。 |
甲南高校山岳部OB田口二郎、この年の日本山岳会マナスル踏査隊および翌年の第一次マナスル登山隊に参加。 | |
昭和32年(1957年) | 春山合宿中、剣岳・小窓尾根にて遭難事故 福永隆一死亡 |
甲南山岳部唯一の死亡事故となる | |
昭和39年(1964年) | 山岳部機関誌 「時報」 創立40周年記念号 を発行 |
昭和48年(1973年) | カナダ・ロッキーにて初めての海外合宿(隊長:井上知三) |
ロブソン峰などを登頂 | |
昭和52年(1977年) | 第一次キシュトワール・ヒマラヤ登山隊(隊長:南里章二) |
昭和54年(1979年) |
第二次キシュトワール・ヒマラヤ登山隊(隊長:渋谷一正) |
6050mの無名峰に登頂、「ラルン峰」と命名 | |
平成元年(1989年) | ヒマラヤ・ムスカングル遠征 関西岳連隊に宮崎哲が参加 |
平成5年(1993年) | アフリカ・ネパール遠征(安部康彦、西濱昌典) |
平成11年(1999年) | スワート・ヒンズークシ踏査(隊長:米山悦郎) |
センチネル峰5,280m登頂 | |
平成12年(2000年) | オールド・シルクロード踏査(隊長:米山悦郎) |
パッキリ・ピ−ク(5,220m)、ボボン・ピ−ク(5,180m)登頂 | |
平成13年(2001年) | 機関誌 「山嶽寮」 山岳部創立75周年記念号を発行 |
平成16年(2004年) | 近年部員減少が続き、遂に新入部員ゼロの年が続いたが,数年ぶりに新人を迎え、再発足した。 |
平成19年(2007年) | クビ・ツァンポ源流学術登山隊(同志社大学山岳部・日本山岳会関西支部共催)に谷勇輝(理工学部4年)が参加、 |
クビ・カンリ6,721mに初登頂 |
甲南高校山岳部報告 創刊号(1927年)より
当時の高校生のドイツ語交じりのやや難解な文章だが、甲南山岳部の活動の原点でもあるので、敢えてここに掲載した(伊藤愿の草稿によるものといわれている)。
アルピニスムス
宣 言
現時我國の山岳界はその澎湃たる登山流行の大潮流の只中にあつて、大なる一飛躍をなさんとしてゐる。
即ち今や、登山概念に於ける、將又、登山形式に於ける進展段階に立つてゐるのである。
山岳の客観性研究は主観的内容を帯び、登山概念の主観的發展は必然的にその上層建築たる
登山形式の変遷を齎らしたのである。理論形式の進展は必然的に實行形式の發展に結果したのである。
登山術の概念に就いての煩些なる論争は今や存在の合理性を失つて了つた。
斯くして今や新しき概念は主観的傾向を帯び、登山形式に於ては
Ohne Fuehrer の主張となったのである。
然らば又 Alleingehen に就いても、Alleingehen
が登山概念の Kategorie 外なり。とは誰が断言し得るか。
遮莫、荒れ狂ふ嵐の中の幾時間、冷き岩稜、高鳴る胸、緊張の一瞬間、寒冷、
寂寥の岩小屋に送る忍苦の十数日、その真摯なる態度、迸り出る若き生命の躍動、
山行く男の子、これこそ我等若人の精進する姿である。
(創刊の辞に代えて
27.11.13)