【はじめに】
以下のものは、甲南大学山岳部時代の4年間の全山行記録です。記録は合宿中にメモで書き留めて帰宅後、清書しました。従って当時の出来事をかなり正確に記録しています。ただし、私の主観が大きいのも事実です。原文は誤字脱字も多く当時の文章力が低さを改めて知ることになりました。今回、転記するにあたり訂正しました。それから“回想”は当時を振り返っての現在の心境です。
4年間山登りを続けられたのも皆さんのお陰です。ありがとうございました。お礼申し上げます。(平成19年11月 記)
5月雷鳥沢 左から
川口 豆田 大庭 薮内 渋谷 住友 要 川野 宮田 吉松 大森 西垣
(1年生時代)1977年4月〜1978年3月
メンバー
4年生:大森 納富
3年生:大庭 川口 中辻(マネージャー)村岸 豆田
2年生:要 住友 西垣 薮内
1年生:今井 川野 関 宮田 山本 *五十音順
メンバー紹介
先ず初めに、当時のメンバーを紹介しておこう。個性派揃いのクセの強い集団であった。
私から観た独断と偏見での紹介である。文句はおありでしょうがお許し下さいね。
大森さん:文学部。今も大変お世話になっている。そして今も頭が上がらない。義理堅く、頭脳派。いざという時には、非常に頼りになる先輩である。また、アイデアが豊富である。例えば、ポリタン開け器など数々の「便利グッズ」を発明した。S先輩を私と共通の敵としておられる。娘さんおふたりも、お父さん同様面倒見の良い人らしい。当時の山岳部では極めて「まともな先輩」であった。
納富さん:経営学部。私が1年の時も4年で、4年の時も4年であった。従って卒業年は私と同じである。また、見た目も若くなくて、構内を御一緒したら後日「この前オマエと一緒に歩いていた人は、どこの“おっさん”だ。」と言われた事があった。性格はAB型特有の“よく分からない。”である。私の妻もAB型であるが共通点は多い。学生時代は『餃子の王将』でバイト。このバイト代でよくおごって貰った。親友に日比野さんと言う人がいて、この方も納富さんと同じ人生を送られていた。お二人とも「大物」である。私にはとても真似できない。
大庭さん:理学部。生物学科で実験等が忙しく下級生との交流は希薄であった。同期の今井とは同じ高校で話は合っていた。岩登りも今井と同様に今ひとつであったが(失礼!)。
ただ、パワーは凄かった。全てマイナス部分を体力でカバーされていたように思う。多くを語らないタイプである。じっくりと話し込んだ事がないのでよく分からない。年賀状だけは毎年戴いている。
川口さん:経済学部。長身で男前。当時のアイドル「野口五郎」に似ていると言う人もいた(私はそうは思わなかったが)。岩登りは大変上手く、長身を生かしてのダイナミックな登りであった。「三点確保」最盛期において、禁じ手の「踏み替え」「飛び付き」なども積極的に使っていた。実は私は川口さんが大の苦手であった。従って私から話し掛けることは、ほとんどなかった。よって、考えなども良く分からない。
中辻さん:経営学部。女性マネージャー。明るく活発な典型的な大阪のお嬢さん。後輩の面倒見が良くて大変お世話になった。顔がお姉さんの“ヒナコさん”とソックリであった。一度、お宅にお邪魔してお母さんにもお会いしたが、これまたソックリあった。中辻さんの仕事は主に部費集めで長期滞納者にはきつかった。私にはそのような事が無かったのでやさしかった。「ペコちゃん」と呼ばれていた。
村岸さん:文学部。私が在籍した4年間で唯一の女性部員。中辻さんとは対照的な大人しい“芦屋のお嬢さん”で、「東京弁」を話された。当時の私の周りには「東京弁」を使う人など皆無だったので違和感があった。他大学からは「ヨーコちゃん!」と呼ばれてアイドル的存在であった。そんな事、私は全然気にしてなかったが。卒業以来お会いしてないが元気であろうか。合宿は冬山以外に参加。冬山は家の人に許しを貰えなかったらしい。それにしても男だけの山岳部に入るぐらいだから、理由は解らないが、相当山好きであったのだろう。一度、寝言を聞いたことがある。「しんどい!しんどい!しんどい!」を連発していた。辛かったのであろう。
豆田さん:法学部。豆田さんも長身で、更に足長でもあった。部室に捨ててあった松本さんのGパンを見て「これはバミューダズボン(短パン)だ。」と言い張ったが、裾が擦り切れているのを見てズボンだと納得された。短足が多い山岳部員の中において珍しい存在であった。この長身を活かして人工登攀では「アブミの最上段に乗ったことがない。」らしい。こんな豆田さんに対抗するため、私は40cmぐらいのチョンボ針金を持っていた。性格も良くて今でもお世話になっている。ただ、卒業は私と同じであった。1年下の住友さんが、卒業の遅れた豆田さんに向かって「豆田クン!」と言ったら首を締められていた。また字が下手であった。
要さん:経営学部。現在も同じ会社である。部活後は帰宅する方向が同じだったので一緒の時間が多かった。要さんと言えば「お母さん」である。実家が吹田で、山に夜行列車で行くとき、必ず線路脇で手を振って見送って下さった。お母さんが見えたら列車の窓を開け「行ってきまーす!」などと皆なで大声で叫んだものである。あの頃は、親の気持ちなど全く解らなかったが、この年になってこの気持ちがよく解る。これぞ「親の心子知らず。」である。結婚式の時、奥さんは要さんの第一印象を「じゃがいも」みたいな人とおっしゃった。正にその通りである(失礼)。要さんとの思い出のアタックは2年の夏の毛勝谷である。雪渓の状態が非常に悪くて、目の前で巨大な雪渓が崩壊した時には、余りのショックで、それ以後雪渓を歩くのが怖かった。
住友さん:法学部。とにかく元気が良かった。私の想像であるが、多分、昔、“ワル”だったと思う。機嫌の悪いときは直ぐに顔に出た。分かりやすい性格である。この点は私と同じである。また、言いたいことは、何でもはっきりおっしゃった。これまた私と同じとである。反面、私が納得いかないときは理詰めで話された。薮内さんの遭難では先頭を切って捜索に参加。義理堅い人である。住友さんとは3月の鹿島槍北壁で死にそうになった。雪崩である。何とか生還出来たがラッキーであった。あれは怖かった。信じられない事であるが、数年後、住友さんは単独でリベンジされたそうである。
西垣さん:経営学部。私との付き合いは半年足らずであった。残念な事に私が1年の夏合宿前に退部された。小柄ではあったがもう少し続けて欲しかった。アレンジボール(パチンコの一種)が得意で連戦連勝であった。その勝ち方を教えて貰ったが、結局、理解出来なかった。
薮内さん:理学部。物静かな大人(オトナ)であった。パワーもテクニックもあった。残念ながら鹿島槍で遭難された。あの時は涙が出た。信じられなかった。今井と捜索に出た日が忘れられない。薮内さんは本当に山が好きだったんだろう。印象に残る山行の北又谷・硫黄尾根等の困難な所ばかりでは必ず一緒だった。いつも騒いでいる我々を、やさしく見ておられたのが印象的であった。もし、あの事故がなかったら、今でも一緒に山に行ったり、飲みに行ったりしたであろう。昨年5月に20年ぶりに鹿島へ登った。ガスのかかった東谷を眺めると当時が思い出された。
今井:経済学部。今でもたまに電話やメールが来る。私の結婚式の翌日、マイカーの後ろにアキ缶を付けカラカラ言わせながらやって来た。忘れられない出来事のひとつである。就職の面接で「君の自慢は何だ?」と聞かれた時、「日本酒1升飲めます。」と答えたという。私には出来ないことである。彼もまた「大物」である。相変わらず「風呂嫌い」だろうか。去年久しぶりに博多で飲んだ。結構元気そうだった。
関:理学部。1年の夏頃に“体力的に厳しい”ということで退部した。人柄も良く気も合ったのに残念であった。実家は長野県中野市で私の営業のエリアであった。仕事でこの辺りを回っていた時に、知り合いを何人か紹介して貰った。筋肉マンであった。卒業以来会っていない。
宮田:経営学部。2年の夏前に退部。私の幼なじみの澤田と同じ清風高校の山岳部出身であった。私とは余り気が合わなかった。言う事とやることが違い過ぎていたように思えたからである。彼ともまた卒業以来会っていない。
山本:理学部。年に1度は必ず会う。山では本当に頼りになった。この点、今井とは違った。奥さんも同じ理学部である。どこへでも出掛けるダンナの勝手さに参っていると思われる。よく、得意先や取り引き先で山の話が話題になる。その時、「私の友人でどこそこへ登った者がいます。」と言うのは大概が山本の事である。恐ろしい奴である。近年、酒が弱くなった。残念である。中年になった今でも「少年チャン!」と呼んでいる。昔の写真と今でも同じ顔をしている。
(OB)
平井さん:OBの中では一番世話になった。お宅にもよく遊びに行った。奥さんのヒナコさんも山岳部員だったことから行き易かった。「ボッカでは今でも現役には負けへんで!」とおっしゃっていた。薮内さんの事故の時は先頭をきって指揮を執られた。義理堅い方である。
ヒナコさん:現役を弟のように可愛がって下さった。優しい人であった。告別式が忘れられない。
松本さん:平井さんと同期。体力の塊(かたまり)。私が現役時代にもフラッと部室を訪れ、同じメニューのトレーニングをされた。その頃、元気一杯だった私と互角の走力があった。松本さんには数々の“信じられない伝説”があるが、薮内さんの事故で鹿島槍へ登った時、厳冬の後立の稜線と麓で“同じ服装”だった。「松本さん!大丈夫ですか?凍えまっせ!」と心配して声を掛けたら、誰かが「大阪駅から同じ服や!」と言った。伝説の一端を見た様な気がした。
松下さん:変わった人である。桜塚高校出身で要さんや西岡の先輩らしいが。何度か飲みに連れて行ってもらった。
渋谷さん:これまた変わった人である。私とは馬が合わない。
村上さん:私が現役時代は独身であった。当時40歳位。笑顔が印象的。人柄温厚。お世話になった。
南里さん:当時は“ダンディ”に見えた。奥さんの仕事はマスコミ関係で美人であった。外国旅行が趣味であった。憧れていた。これまで出会った事のないタイプであった。
美田さん:当時、岡本に仕事場の事務所があった。たまに部室にも顔を出され、昼食をご馳走になった。優しい方であった。
浪川さん:平生会には、ほぼ皆勤で出席。結構色んなご意見を頂いた。私の苦手なタイプである。
香月会長:多分、香月さんは私の事を気になさっていなかったと思うが、社長のような貫禄に一目置いていた。やさしい方だった。殆どお話ししたことはない。
5月 立山ケーブル下
後列左から 西垣 村岸 大森 宮田 川口 豆田 大庭
前列左から 要 薮内 川野
◎ 4月9〜10日(土・日)蓬莱峡 甲南大学山岳部
9日(土)
阪急岡本駅から西宮北口で宝塚行きに乗り換え宝塚下車。そこからタクシーで蓬莱峡へ580円ナリ。村岸さんと3本右側と正面(正面と小屏風)の岩を登る。各々1ピッチ。
10日(日)
午前:裏の脆い岩山をアイゼン(8本歯)を付けて登る。大庭さん、要さん、住友さん。初めて8本歯アイゼンを付けたのでとても歩きづらい。岩場は二つありともにとても岩が脆く胆を潰す。
午後:幕営地正面の岩を薮内さんと2本。要さんと3本。川口さんと2本登る。最後に住友さんと確保の練習をする。とても身体が痛い。今日は昨日と打って変わり、人が多くそれに伴って落石も多いので危険だ。
(回想)
山岳部デビューの日。また初めて本格的な岩登りをした日でもある。高校の部活と違って結構のんびりしていたように思う。高校のそれは軍隊のようであった。この日に今井が火傷をした(記録には無いが)。そのため5月の合宿に参加出来なくなった。炊事中にお湯をこぼしたのだ。責任を感じた。
◎ 4月28〜5月7日 5月合宿 雷鳥沢定着 甲南大学山岳部
【参加者】( )は学年
大森(4)・納富(4)・大庭(3)・川口(3)・豆田(3)・村岸(3)・要(2)・住友(2)・薮内(2)・西垣(2)・宮田(1)・南里(OB)・松本(OB)・渋谷(OB)・吉松(OB)
【計画】
アタック対象:八ツ峰・源治郎尾根・前剣東尾根・雄山三尾根P1フランケ・竜王岳(東尾根/北壁/西壁/南壁)・剣岳・立山三山
28日 立山3号で離阪
29日 吹雪 立山駅⇒美女平⇒弥陀ヶ原⇒室堂⇒雷鳥沢
(回想)高原バスは弥陀ヶ原まで。ここからポールに沿って室堂まで悪天と重荷でバテた。非常にしんどかった思い出がある。
30日 晴れ 終日 雪上訓練
5月1日 晴れ 終日 雪上訓練
2日 雨 停滞
3日 晴れ 終日 雪上訓練
4日 曇り 立山三山巡り
雷鳥沢BCから一ノ越まで1ピッチ。沢を快適に進む。一ノ越から雄山までは急な登りでかつガラ場を1ピッチ。大汝山、富士ノ折立、真砂岳、別山と2ピッチ。剣御前小屋よりシリセードでBCにもどる。
5日 雨 停滞
6日 晴れ 終日 雪上訓練
7日 曇り 下山
(回想)
初めての雪山合宿であり非常に疲れた。毎日が雪練であったが結構楽しかった。また、「これでもか!」というほど日焼けした。まるで顔面をヤケドしたようになった。アタックは立山三山巡りのみで寂しかった。もっと色んな所に行きたかった。上級生がOBも含め一杯いるのに何故だとも思った。まあ、雪山技術が未熟だから仕方ないが。合宿中に同期の宮田と喧嘩をした。薮内さんに「こんな所で喧嘩してもしょうがないだろう。」と言われた。
原因は何だったか思い出せないが、これ以後、彼とは上手くいかなくて話をすることもほとんどなかった。この5月に立山を訪れた。この時と逆のコースを一人たどった。クラストした斜面のトラバースやちょっとした岩登り。緊張した。当時は何とも思わなかったのに。年を感じた。また数年前には、一の越からタンボ平へのスキーで下った。雷鳥沢も回りの山々も快晴のもとすばらしい風景であった。ただ、学生時代に初めて見た時と比べ小さく感じた。
◎5月14〜15日(土・日)蓬莱峡 甲南大学山岳部
14日(土)曇りのち雨
14時頃、蓬莱峡到着。15時頃から登り始め豆田さんと小屏風中央部1本と大屏風4本。夜から雨が降り始める。
15日(日)
午前:早朝からの雨も上がり川口さん・要さんと3人で小屏風1本(クライミングダウン1本)と大屏風2本。この後、大森さんと3本登る。
午後:昼食後、納富さんと小屏風3本。大屏風10本。大屏風でクライミングダウン2本。
◎5月18日(水)晴れ 甲南バットレス 甲南大山岳部
昼の3時限が終了後、住友さんとバットレスに向う。先に来ていた薮内さんと、小さいオーバーハングをシュリンゲとカラビナで乗り越えフェースを1本。
(回想)
甲南バットレスは、別名「岡本バットレス」とも呼ばれる幅20m高さ30m程の硬い1枚岩である。JRや阪急電車からも遠望出来る。大学から徒歩20分。授業がなくて暇な時よく行った。下部は、向って右側に張り出し2m程の数段の大ハングがあり、左側は張り出し1mほどの小ハングとなっている。右の大ハングにはA2のルートが3本あった。いずれもハングの乗り越し部分(出口)が難しかった。ハング自体は完全なルーフではなく、身体が壁から離れてアブミ上でグルグル回ることもないので突っ張って登れる。またピンの間隔も短い。ただ、逆さハーケンもあり、抜けそうで心臓にはよくない。左の小ハングにはA0のルートが2本あった。古いボルトにカラビナを掛けて一気に登るのだが、本チャンではA1であろう。ハングを抜けたフェースは何本かクラックが走っていて適当な間隔でピンが打たれてあった。このクラッツ沿いに登るのだが結構細かく緊張した。グレードはW+程度か。これまで簡単な蓬莱峡にしか行ったことがなかったので、初めてここを訪れたとき相当ビビッた。納富さんに「本チャンの岩場はこんな所ばかりか?」と聞いたら「こんな所はまずない。あってもピンがベタ打ちだ。こんな所ばかりだったら何人も死んどるワ。」これを聞いて安心したものである。30年前はこんな風であった。この何年か後に、3学年後輩の東が左の小ハングをフリーで越えたと聞いた。靴はラバソールであった。東は、確かに岩登りは上手かったが、それにしても「すごい!」と思った。我々がビブラムで、一生懸命に必死で登っていたのに。東の話から更に何年かして山岳雑誌を読んでいたら、右のA2のハングも誰かがフリーで越えていた。ピッチグレード5・10だった。
◎5月21日(土)曇り 甲南バットレス 甲南大学山岳部
豆田さんと先日登った所を2本。住友さんとクライミングダウン1本。この時1m程スリップして肝を潰す。
◎ 5月27〜29日 個人山行 比良山系 奥ノ深谷 甲南大学山岳部
27日(金)晴れ 豆田 要 西垣
14時20分。京都三条発梅ノ木行のバスで坊村下車。牛古場まで歩き幕営。
28日(土)晴れ 奥の深谷遡行
牛古場7:35出発。ここでワラジを履き、すぐに高さ5mのF1。左岸を巻く。しばらく徒渉を繰り返しF2。F2は落ち口がハングになっている。下の釜の右岩壁に残置ピン1本があり、それにシュリンゲを掛けて要さんがトップで登る。僕は釜に落ち、ザックが浮き袋になって上手く泳ぐ。豆田さんも同じ所でドボン。僕は要さん・西垣さんに助けられ無事通過。豆田さんは巻いた。F2は左岸を直登する。沢は2本に分かれ、本流はほぼ直角に曲がり、更に上部で左に曲っている。二股にF3があり左岸を快適に登りF4。斜めの白いバンドを登る。F5へは右岸に渡りそこから壁を直登。残置ピンが5本あり、ルートは巻き道と直登があったが水量が多いので巻き道をとる。トップは要さんで7m程登った所でフィックス。ここから右岸のブッシュ帯を大きく高巻く。途中ブッシュの切れ目からF8・F9・F10と三段に落ちる30mぐらいの大滝を見る。F10上部のルンゼから下り、F11は右岸を登る。5〜6分で淵に出合い正面にスラブ状になったF12。淵を腰まで入って徒渉。F12の中間辺りまでは左岸の岩壁を快適に登る。ハーケン1本を打ち豆田さんがトップで、途中、落ちそうになりながらも突破。西垣さんがスリップしドボン。F13は右岸を直登。さらに徒渉を繰り返しF14。下は淵になっていて左に曲っている。F14は真剣にへつり、その後ゴーロの河原を行く。F15も右岸をへつりゴーロ河原を行くとハイキング道に出合う。昼食後、大橋小屋へ向う。小屋は荒れていて、中には材木が置いてあった。僕と豆田さんは小屋の隅で、西垣さんと要さんは外でツエルトで寝る。
牛古場7:35⇒ハイキング道12:40⇒大橋小屋14:00
29日(日)曇り
大橋小屋をあとに、奥の深谷を詰め、南比良峠に向い堂満岳の西を巻き金糞峠。昼食後、正面谷を下り、イン谷口へ出てバスで比良駅へ。
(回想)
奥ノ深谷へはこれを含め3回入った。1回目は高校1年の夏で、中学時代の友達5人とザイルも持たなかった。かなり危ない遡行であった。詳しくは覚えていないが何回か落ちた。3回目はこの数ヵ月後の秋である。回を重ねる毎に滝芯を忠実に登っている。この谷は次々に出てくる滝がすばらしく、機会があればまた訪れてみたい。
◎6月4〜5日(土・日)甲南大⇒大月地獄谷⇒保塁岩 甲南大学山岳部
4日(土)晴れ 大月地獄谷 豆田 要 関
学校を14時頃出発。暑い日だ。F1までは出合から幾つもの砂防を巻きながら進む。F1は約10mで要さんトップで左岸の岩壁を登りザイルフィックス。岩はしっかりしていて快適に登れる。F1から数分行くとチムニー状で巨岩が挟まったF2。約10m。右岸を登る。5mぐらい登ると、とても悪い箇所があるが、そこにはピンがありシュリンゲを掛け必死で通過する。すぐ上がF3で水が一条となって落ちている。左岸の湿った岩壁を登る。この岩は湿っている割に余り滑らない。滝の落ち口付近が少し悪い。F4は、この沢の中で最も簡単で約10m。左岸のホールド・スタンスが豊富な岩を登る。トップの要さんが落ち口付近でスリップした時は一同ヒヤリ。そこは水際を行くと難なく通過出来た。F4からは2つの砂防とブッシュ漕ぎをして今日の宿泊地「軒の下」に約1時間で到着。
5日(日)晴れ 保塁岩
保塁岩へは初めてやって来た。この岩場は東稜・中央稜・西稜と三本の岩稜があり、東・中央・西と難しくなっている。中央稜には5級の岩場があるのだそうだ。岩質はとても硬く東稜下部を除いてホールド・スタンスは細かい。ここには超人的な「保塁の住民」と言われる、サルのように難しい岩場を登る人達がいるそうだ。
午前:東稜1本 中央稜1本 西稜2本
豆田さん・西垣さんと三人で手始めに東稜に向う。先日、今井が上手に登ったというこの岩場。下部は階段状で易しいが、上部は細かく悪い。西垣さんトップで、スローペースで登る。2本目からは大森さん来られ、西垣さんが抜ける。豆田さんと中央稜を登り1本トラバース。この後、西稜に取り付く。取り付き点は西稜の最も左で、豆田さんが必死で突破。棚に出た所でピッチを切る。このピッチは豆田さんが梃子摺っただけあって苦しかった。ホールド・スタンスがないので、ハーケンにシュリンゲを通して相当な時間と体力を使った。棚からは細かなホールド・スタンスを使って上部に出る。西稜2本目は先程より右寄りの所から取り付く。1本目よりは易しい。
午後:中央稜2本 西稜1本
中央稜のテッペンから川口さんとその取り付きに向う。クラック・テラス・ハングと続いているフェースを登る。クラックはテキスト通り上手く登り、ハングはふたつのアブミを使い死にもの狂いで登る。初めてアブミを使い多少の不安はあったがとても便利だ。2本目は先程より少し左側を登る。ここはホールド・スタンスがとても細かいがピンが沢山ある。西稜は午前中に豆田さんと必死で登った所を、川口さんとビナだけで登り宙吊りとなる。ここを登った後、指がおかしくなり困った。
(回想)
大月地獄谷は水量も少なく登山靴で登れた。近くて良い所である。保塁岩はこのあと訪れるフリークライムの波で、我々が人工で登っていた所はフリー化された。硬くて垂直。クラック。フリークライムには最適である。記録にある「5級の岩場」など現在の技術と装備を持ってすれば“初心者コース”であろう。当時のゲレンデではビブラム底の登山靴が主流であった(このために靴の先がよく磨り減った)。一部の社会人が運動靴(現在の底の薄いマラソンシューズみたいなもの)でフリクションを活かして登っていたぐらいであった。無論まだ、ラバソールは出ていなかった。当山岳部でもそうであったが、岩登りは冬山や更に困難な本チャンの壁に挑むためのトレーニングの場に過ぎなかった。従って「保塁の住民」のように運動靴で岩場を駆け回っても評価は低かった。現在は、クライマーとアルピニストが完全に分化しているが、丁度、この頃は過渡期であったと思われる。山岳雑誌にもアルピニストの記事が多かった。私のヒーローは、メスナー・ダグスコット・植村直己・松本さん?であった。
◎6月18日(土)晴れ 甲南バットレス 甲南大学山岳部
今日の予定は仁川であったが、時間の関係で中止になりバットレスに行った。今日、初めてトップを命じられ、勇ましく挑んだがとても恐ろしかった。川口さんと1本登り、2本サル回し。納富さんと1本。2本サル回し。要さん・西垣さん・今井とでアブミルート1本。
◎6月19日(日)曇り後晴れ 六甲山ボッカ(甲南大⇒雨ノ峠)甲南大学山岳部
11時30分。3年生40kg・2年生50kg・1年生40kgを担いで出発し、保久良神社で1ピッチ。金鳥山で2ピッチ(昼食)。雨ノ峠直下で3ピッチ。そして雨ノ峠で4ピッチ。本日のボッカは西垣さんが50kg担ぎ、最初からバテていた。薮内さんは3ピッチ目、とてもハイペースであったため55kgの重荷がたたって急にペースが落ちた。僕にとっても、とてもしんどいボッカでした。
(回想)
私の最も嫌いなトレーニングがボッカであった。いつも何とか理由を付けて休もうと考えていた。ボッカの日は、朝から憂鬱であった。キスリングに砂入りの“ズタ袋(麻袋)”を入れるのであるが、最初、要領が分からずに、直接、キスリングに砂を入れると思い、聞いたら「松本さんみたいなことするな!」と言われた。松本さんは直接砂を入れていたのだろうか?私にとっては大嫌いなボッカであったが、今井は得意であった。今井以外にボッカを得意としていたのは、大庭さん・薮内さん・平井さんであった。特に薮内さんはいつも人より多目に担いでいた。大したものである。ボッカは正に“我慢大会”。“意地の張り合い”であった。
◎ 7月2〜3日(土・日)土日山行 蓬莱峡 甲南大学山岳部(2年は仁川)
2日(土)曇り後晴れ
13時過ぎに学校を出発。15時前到着。15時頃から登り出す。宮田が授業で遅れて来るため、豆田さん・今井。僕・関に分かれ、互いでビレーを交替しながら小屏風ばかりを8本ほど登る。夜、とても暑いので僕・関・宮田の3人は砂防の上で星を見ながら寝る。
3日(日)快晴
午前:5時起床。7時より登り始める。豆田さん・関・僕。大庭さん・宮田・今井に分かれて行動する。今日は今回の土日山行の唯一目的「1年生がトップで登る。」という練習をした。トップは関と交替しながらお互い4本ずつ登った。
午後:昼から松本さん・渋谷さん・ポッチさんがやって来る。ポッチさんは暑い中めげずにアイゼンを付けて登っていた(ヒマラヤ登山のため)。昼からも午前中と同じパーティで主に大屏風を登った。真夏並みの暑さで皆バテ気味。にもかかわらず、僕ら1年はお互いで6本ずつ登った。15時頃、若い男の人がS字クラックルートの中間辺りから転落し片腕を折った。我々はそのあと直ぐに引き上げる。宝塚でOBのおごりで大工大の人も交えて中華料理を食べる。
(付)トップとセカンドについて
トップとセカンドとの大きな違いは落ちた時どうなるかであろう。クラックで落ちた人もセカンドなら「ドキッ!」としたぐらいだろう。しかし、セカンドで真剣に登ることを続けていれば、トップの時もその要領で登ると絶対に落ちないと思われる。
(回想)
岩登りの醍醐味はトップで登ることである。オールセカンドで登っても「登った」とは言えない。トップで登れないのであれば、そのルートに取り付くべきではない。最近の登山では、これを理解していない人が多いように思う。事故が起きリーダーが動けなくなったどうするのか?少し愚痴っぽくなってしまった。反省!!この年に0Bを中心としたヒマラヤ遠征が行われた。私もいつかはヒマラヤの巨大峰に登ろうと思っていたが実現しなかった。情熱が足りなかった。
◎7月9〜10日(土・日)土日山行 不動岩 甲南大学山岳部
9日(土)晴れ後曇り
15:00に学校を出発し18:00頃国鉄道場駅に到着。直ぐに登りに行く。岩場は駅から10分程アスファルト道を宝塚方面に戻り、少し広い空地から急な坂道を登りきった所が取り付き点である。豆田さんがトップで正面のフェースを2本登り僕が後に続いた。1本目の2Pで、かぶり気味の所で左足がスリップしドキッとした。2本目も2Pで快適に登る。しかし2P目のトラバースは落ちたら振られるから恐ろしかった。夜は駅のホームで寝る。蚊がとても多い。
不動岩:これまで訪れた岩場(蓬莱峡・保塁岩・バットレス)よりも大きく、しかも変化に富んだルートが多い。岩質は、どちらかと言うと脆く、所々ブッシュが生えていて浮石も多い。その為か大量のハーケンやボルトが打ってある。ホールド・スタンスも豊富であるが悪い所も少なくない。
10日(日)曇りのち雨
午前:6時30分に起床。8時より登りに行く。今日のパートナーは川口さんだ。1本目、正面フェース左の凹角を登る。1P目は取り付きより10m程登った所でホールド・スタンスを失い立ち往生したが“度胸一発”で無事通過。2P目は、ほんの15mの登りであるがとても難しい。トップの川口さんも必死で登り切った。このピッチは大きい岩が2枚重なりその間が30cmぐらい開いている。そしてホールド・スタンスが全くなくて、あと一歩がどうしても行けない。僕は、その割れ目に入り込み、身体が引っ掛かり両足が宙ぶらりんだったが芋虫のようにどうにか這い上がった。2本目は2P。昨日、豆田さんと登ったルートで簡単に通過出来た。3本目を行こうとした時、雨が降ってきたので、昼食後直ちに引き上げた。
(回想)
不動岩は大きい岩場で本チャンのようであった。ただ、脆いので嫌であった。記憶にもはっきり残っていない。この後も年に1回ぐらい訪れたが、浮き石の多いスッキリしない岩場で良い印象はない。
◎7月15日〜8月6日 夏山合宿 北ア 剣岳 甲南大学山岳部
【参加者】( )は学年
大森(4)・大庭(3)・川口(3)・豆田(3)・村岸(3)・要(2)・住友(2)・薮内(2)・今井(1)・関(1)宮田(1)・山本(1)
【計画】
アタック対象:八ツ峰(主稜・Y峰ACDフェース)・東大谷・源治郎尾根(主稜/T峰平蔵谷側フェース)・チンネ・小窓尾根・剣岳北方稜線・池ノ谷(中央壁/ドーム稜/剣尾根)・丸山東壁緑ルート・別山沢左俣大スラブ
縦走隊:雷鳥沢⇒薬師岳⇒雲ノ平⇒槍ヶ岳⇒前穂高岳⇒上高地
沢登り隊:黒部川(柳又谷/上ノ廊下)
7月15日(金)晴れ 離阪学校から岡本まで3Pかかる。本山駅から大阪まで東海道線を使う予定であったが、脱線事故のため阪急で行く。車中では大きい荷物を担いでいるため変な目で見られる。立山3号で大阪を23時15分に出発。
16日(土)晴れのちガス 入山 室堂⇒真砂沢BC
立山駅から50kgの荷物を担いでケーブルに乗り込み、他の人から「何でこんなデカイ荷物を持って山に登るねん。」と言われる。美女平からはバスで室堂まで入る。5月に来た時よりずーっと雪は少ない。室堂付近で遥か彼方に剣岳が見えた時は溜息が出た。室堂で休憩後50kgの荷物を担いで、みくりヶ池山荘に向う。そこに10kgの一斗缶をデポし、真砂沢目指して出発する。1Pで雷鳥平。更に2Pで剣御前小屋に到着。さすが雷鳥沢の2Pは苦しく要さんがバテ、僕は御前を目の前にして足が引きつり腰に激痛がきた。しかし、宮田のボッカ力には参った。雷鳥沢は5月の立山三山巡りからの帰りにシリセードで下った時よりも、ずーっと雪が少なく、雪渓は一ヶ所だけだった。御前からは剣沢を3Pで下り、雪渓で何度も転びその都度皆に助けられた。途中、平蔵谷・長次郎谷・前剣東尾根・源次郎尾根・八ツ峰などを見るが想像よりも迫力に欠けた。真砂沢には、もう既にたくさんの大学が色々な色のテントを張っていた。さあ合宿の始まりだ。
(回想)
夏山合宿の入山は本当にきつかった。自分の体重と同じぐらいの荷物を担いでいるので当然ではあるが。中身は団装の一斗缶(食料3週間分10kg)2個とザイル数本にテントなど。それに個人装備の登攀具などが加わると50kg以上になった。当時、軽量化は余り考えてなくて、何でも必要なものは持って行った。長期の合宿で快適性を重視したためである。ペースもゆっくりで、コースタイムの倍以上掛かった。朝、室堂を出て真砂には夕方着いた。また、転倒すると大変で、ひとりでは立てなかった。そんな時は皆で手を貸して起こした。夜は毎年、全身痙攣を起こした。背中・足・腰・手など全ての筋肉が引きつった。非常に重労働であった。
17日(日)曇り 長次郎谷にて雪上訓練
昨夜は雨が降っていたが、今日は曇り。長次郎谷で雪練を行う。長次郎谷は思っていたよりも狭く感じたが傾斜がきつくてしんどかった。2Pで雪練地に着き、ストッピング・アイゼンワーク・ビレーなどをする。ストッピングが上手くいかなかった。山本は左利きで上手に止めていた。
18日(月)曇り後晴れ 三ノ窓谷にて雪上訓練
三ノ窓谷出合まで1Pで到着。そこより更に1Pで雪練地に着く。前方にアイゼンを履いた人が、ひとり三ノ窓目指してゆっくり登っていた。雪練地には関学がいて1年生がひとりしごかれていた。我々よりも下手だったのでとても自信が付いた。今日は昨日よりもずっと上手にストッピングができうれしかった。帰りに出合まで村岸さんとコンテをやり、止まる率10割であった。出合(二俣)で昼食後、川口さんと近藤岩を登りに行き、トップの川口さんが3mぐらい登ったところで浮き石を掴み転落。左目の上とアゴを切りニットズボンは血だらけになった。近くで見たのでとても怖かった。川口さんは明日、医者に診てもらうため下山するそうだ。明日は八ツ峰アタックだ。
(回想)
ここに出てくる関学の1年生は「芦田君」である。彼とは、このあと長い付き合いとなった。ゲレンデや本チャンの山でも良く出会った。人柄が良かった。関学は当時から部員不足に悩まされていた。上級生は我々1年生を見て羨ましがった。
近藤岩の事故は、私にとってもショックであった。目の前で人が落ちて怪我をするのを初めて見たからだ。また、立場を自分に置き換えてみたら怖くなった。幸いにも川口さんの怪我はそれ程ひどくなくてよかったが。
19日(火)曇り 八ツ峰縦走 豆田 要 住友 今井
今日は夏山合宿初めてのアタックだ。八ツ峰と源次郎尾根に分かれてB.Cを5時45分に出発。長次郎谷から八ツ峰のU・Vのコル目指してひたすら岩やハイ松の斜面を登る。この辺は浮き石と不安定なブッシュで緊張する所が多かった。途中、住友さんがヘルメットを拾う。U・Vのコルからは三の窓谷側の巻き道を行き、ひょっこりV峰の頂きに出る。末端は切れていて、這松を支点にして20mの懸垂。更に10m程進んで3本のハーケンを発見。これを支点に20m豆田さんと懸垂。降り立った所はとても岩が脆く不安定だ。そこから岩を15m程慎重にへつり、更に岩稜を恐る恐る登りW峰に出る。W峰から少し三ノ窓谷側を行き、そのあと長次郎谷側に出てX峰に立つ。X峰から長次郎谷側をジグザグに15分程下り20m懸垂してX・Yのコルに降り立つ。ここでAフェースを登る大経大の人と会う。レーション後、ガスと小雨のため先に行くことを諦めてB.Cまでグリセードで戻る。
B.C5:45⇒U・Vのコル9:00⇒X・Yのコル11:30⇒B.C13:10
20日(水)曇り 東大谷:BC⇒早月⇒立山川BS 豆田 薮内 要 山本 今井
曇り空の中、別山沢隊と東大谷隊に分かれ元気に出発。アイゼンを着けガスのかかった長次郎谷を3Pで登る。長次郎谷上部に行くほどガスが徐々に濃くなり、上も下も全く何も見えない。生まれて初めて立った剣岳頂上もガスのため展望ゼロ。でも、登山者は大勢いた。本峰直下でロンスパとアイゼンを外す。本峰からは北西に派生する早月尾根を下る。最初の部分は岩をへつったり下ったりする。そこには冬山登山者が残置したと思われるフィックス。そして頑丈な鎖がたくさん懸けてあった。また脆い岩が砕け、池ノ谷に落ちていった。2Pで伝蔵小屋に到着。途中、冬用デポのガソリン4Lを拾う。それから、小屋まで旗の付いた大量の冬用の竹竿を見る。伝蔵小屋では下関市大WVと会う。ここでレーションを食べる。小屋から30分で避難小屋に到着。雨が降ってきたので中で雨具を着る。
中は大変汚く、ゴミが散らばっていたが、髭の登山家がひとりいた。そこから更に2時間ほど下ると地元の中学生の大集団に出会い、抜き去るのにかなりの時間を費やす。松尾奥ノ平を過ぎ馬場島に着く。甲南レリーフに黙祷後、馬場島の山小屋でうどん(250円)を食べる。その後、立山川の林道を辿り馬場島発電所に出る。林道にはたくさんのダンプが通っていた。発電所から右岸の小道を進んで行ったが途中で見失い、ブッシュ漕ぎの末、今日のビバーク地に到着する。全員とても疲れているのに焚き火などして楽しく過ごした。それにしても早月尾根はとても長く辛い下りだった。
BC4:30⇒剣岳8:15⇒伝蔵小屋10:40⇒馬場島14:00⇒BS18:05
(回想)
早月尾根の下りは辛かった。ほとんど走っていたが6時間ぐらい掛かったと思う。この日はBCからビバーグ地まで12時間行動だった。この早月の下りでは左足親指の爪が内出血し後日剥がれた。これくらいハードな下りだった。途中の冬期小屋は、入るのが嫌になるくらい汚れ荒れていた(現在は取り壊されているらしい)。30年前の山には、ゴミは多かった。我々も何のためらいもなくゴミを捨てていた。山小屋が近くにある所はそれほどひどくなかったが、三ノ窓などはゴミだらけであった。それに比べて最近はゴミもなくキレイである。私も山でゴミを見掛けると拾うように心掛けている。
21日(木)晴れ 東大谷⇒BS
久しぶりの快晴だ。昨日、引き返した岩壁を2時間ブッシュ漕ぎをしながらへつり、やっとの思いで難所を通過する。しばらく右岸の河原を行くとすぐ大きな雪渓があり、気を付けながらこれの上を行く。これを通過後、巨石のゴロゴロした右岸を行き、途中で左岸に移る。しかし、更に行くと岩でどうしようもない為、少し戻って徒渉し右岸に移る。しばらく行くと雪渓があり、それを越え更に少し行くと東大谷出合に着いた。少し谷に入った所でレーションを食べる。そこから右岸をずーっと行くと、見るからに不安定そうな雪渓に出合う。ここで右岸の岩壁をフリーで登り、安定している谷底に懸垂で降りる。そこより雪渓を渡り、左岸に出てボルトとハーケンが残置してある“湿った岩壁”を恐る恐るへつる。更にブッシュ混じりの悪い左岸をへつり、20mの脆い岩を懸垂して雪渓上に降り立つ。ここでアイゼンとロンスパを着け遡って行くとすぐに二俣。右を取る。この頃より徐々に傾斜もきつくなる。更に行くと二俣に出合い右を取る。きつい傾斜を詰めて行くと前方に滝を見る。まだ、かなり水量が多い。滝の落ち口辺りから右のルンゼを、小石を落としながら20m程上がり、そこでアイゼンとロンスパを外す。このルンゼをひたすら登ると支尾根に出て、必死でブッシュ漕ぎをして尾根を登っていると、どうも右下に見えているルンゼの方が登り易そうなのでトラバースしてルンゼに立つ。ここからは、しんどいのやら、だるいのやらで、四つん這いになってひたすら稜線を目指す。途中、豆田さんが人頭ぐらいの石を二つ落とし当たりそうになる。これを登り切るとひょっこり明るい尾根に飛び出て右下に小さい雪渓を見る。雪渓が途切れる所で休む。まだ水量が多い。雪渓が途切れる所は小さい滝となっていて詰めて行くと、またしても小さい雪渓に出た。キックステップで登ると、直ぐ側で雷鳥の声を聞く。一瞬、人の声と間違える。雪渓が終わりガラ場を登って行くと稜線が見え、一同必死で駆け上がったが、その上からは室堂が遥か下に見えた。西の空には太陽が沈みかけ雲海がとてもきれいだった。ここは、剣御前から出ている尾根だということで意見が一致し、今日中にBCに戻れないからビバーグした。ビバーグする時、剣本峰を横切る巨大な火球(―5等)を見る。夕食はビスコ3個・ナチュラル3個・アーモンド半分・キャラメル1箱。ツエルトの中で明日の晴天を祈りながら要さんと寝る。
BS6:40⇒毛勝谷出合9:35⇒東大谷出合11:35⇒上ノ二俣16:00⇒BS19:20
22日(火)晴れ BS⇒BC
BS地の尾根のブッシュを漕いで登ると、1Pで剣御前小屋から本峰に向かう縦走路に出る。途中、住友さんのコールを聞く。剣山荘で、大庭さんと住友さんが持ってきた弁当を食べBCに戻る。BCへ戻る途中、講習会に向うため下山する村岸さんに会う。BCへ戻ると宮田が歓迎してくれた。今日は待望の沈殿だ。
BS6:15⇒稜線6:50⇒剣山荘7:15⇒BC8:50
(回想)
このロングランは1泊2日の予定であったが、雪渓の処理やルートファインディングに苦しめられ2泊かかった。ルートも黒百合のコルに出る予定が南に逸れた。また、1泊多めに掛かったので食料が無くなり非常食を食べた。この時まで非常食というのは、絶体絶命のピンチの時に使うものだと思っていたので、リーダー豆田さんの「非常食でも食うか。」の一言には驚きだった。東大谷自体は、陰湿な荒れ谷で、たまに落石も飛んできて良い印象はない。過去に「別山尾根や早月尾根からの転落者が多数いる。」と聞いていたからかも知れないが。今回は右股に入ったが、中俣の中心部を探るのであれば探検的で面白いだろう。殆ど手付かずの岩場である。それに相当な準備が必要であろう。この時の印象が良くなかったので、その後も東大谷を訪れることはなかった。最後にビバーク時に見た大火球は凄かった。まだ、明るい夕焼けの空をバックに頭上を北へ飛んで行った。今まで幾つもの火球を見てきたがあれ程に見事なものはない。30年近く経った今でもはっきり覚えている。
23日(土)晴れのち曇り 八ツ峰Y峰CフェースRCCルート 豆田 宮田
朝から風邪の為すこぶる調子が悪い。BCでロンスパを着け出発。長次郎の登りで咳が出てとても苦しかったが、2Pで取り付き点まで上がる。1Pノーザイルで登り、大きいテラスから最初に宮田がトップで行き、その後つるべで僕と交互に登る。1P目。5m程チムニ―状の割れ目を登り、そこから右にトラバースする。2P目はトラバース気味に斜めに上がりビレーピンを探すのに苦労する。3P目は正規のルートが社会人パーティに登られているので凹角を登る。宮田が上部で右足を滑らせた時は一同ドキッ!とする。この辺より浮き石が増え緊張する。4P目は浮き石の多い悪い所だ。上部は度胸一発で越え落ちそうになる。5P目は這松混じりのスッキリしないピッチであったが、さりげなく通過する。てっぺんからはDフェースを登るクライマーが良く見える。帰路はX・Yのコルから快調にグリセードでBCに戻る。宮田が遅れ気味だ。
(回想)
私はY峰Cフェースで本チャン岩登りのデビューをした。記念すべき場所であるが殆ど記憶に無い。今回、改めて見直してみて豆田さんと宮田とのパーティであったことなど完全に忘れていた。天気も良く快適であったのだろう。
24日(日)晴れ 沈殿
北方稜線に行くつもりだったが風の為39℃の熱があり沈殿とする。
25日(月)晴れ 沈殿
北方稜線目指しBCを出るが、熊の岩辺りで身体の調子が悪く引き返す。本日沈殿。
26日(火)晴れ 沈殿
今日も風邪の為沈殿。am10:00頃、八ツ峰X・Yのコルで三ノ窓谷側に落ちた遭難者救助に出た大森さんと要さん(当初はチンネの予定)が夜10時過ぎに戻る。
27日(水)晴れ 沈殿
今日も明日も1年生は沈殿。風邪も治り調子も良いのに残念だ。
28日(木)晴れ 沈殿
1年だけで大庭さんと薮内さんの帰りが遅いので心配したが、食い放題の一日であった。明日は撤収だ。
(回想)
東大谷から帰ってから風邪をひいてしまった。それまで「風邪などひいたことがなかったのに。」である。原因は過労と思われた。こんなにしんどくて生活条件の悪い環境はこれが初めてであった。高校時代の合宿も連日の猛練習で辛かったが、布団で寝れて、食事も好きなだけ食べることが出来た。しかし、ここでは違った。テントでの夜は寒かったし、食事も腹一杯取れなかった。合宿中は一日中腹を減らしていた。とにかく1年の時はよくバテた。他大学でもこの辛さに耐えきれずに逃げ出した者がいた。これが2年になると余裕と慣れからかバテなくなった。不思議なものである。それにしても、この風邪の発熱は凄かった。朝食時に余りに熱っぽいので体調不調を申し出たところ、最初は冗談と思われて信じてもらえず、薮内さんが私の手を握って余りの熱さに驚き、熱を計ったら39℃あった。非常にしんどかった。このために1年の夏は余り色んな所に行けなかった。
ここで当時の1年生の1日を振り返ろう。朝は3時頃起床。(天気が悪ければ再び睡眠。この判断はリーダーが行った)。1時間かけて朝食と昼の弁当作り(この間、上級生は爆睡中)。朝食の内容は、ご飯と味噌汁とフリカケなど簡単なもの。昼の弁当は、きっちりと米一合分を基準となる容器を使って、各自持参の弁当箱(タッパ)に均等に分けた。1年生の中には、大きい弁当箱を持参する者もいたが、ご飯の量は決まっているのでスカスカになり寂しかった。おかずはなく、白飯にフリカケや海苔の佃煮をかけただけのシンプルなものであった。これだけで1日中動き回るので腹も減る筈である。朝食と用意を済ませ5時頃に出発となる。その後、各々のアタックを済ませ早いパーティは昼過ぎに帰ってくる。早く帰ってきた1年生は、朝に使った食器を洗い夕食の準備にかかる。洗い場では各大学の1年生が同じ様に来ていて知り合いが沢山出来た。夕食はカレー・シチュー等で少し豪華である。私はこの時にカレーを食べ過ぎ、今でもカレーは余り好きではない。夕食後は明日の予定の発表とミーティングがあり、食器洗いの後、翌日の朝食の準備をして8時頃就寝となる。こうして長い一日が終わる。
29日(金)晴れ 下山 真砂沢BC⇒雷鳥沢
8時頃BCを出発。1Pで平蔵谷出合。ここで関学と会う。2P剣沢小屋。ここでレーション。次のピッチで御前小屋。御前小屋には沢山の人が休んでいた。ここから雷鳥平までは何回も転んで1Pで到着。テント設営後、食事に室堂に行く。立山そば(450円)・あんまん3個(1個100円)・肉まん1個(100円)・牛乳1本(80円)・缶コーヒー1本 (150円)・ソフトクリーム1個(200円)を食べ満足感に浸る。ここで家に電話を掛けてみると、見る見る間に60円使った。そして友人に絵葉書を出した。夜、神戸大学と撤収コンパをやった。明日から縦走だ。でも荷物の重さを考えただけで不安になる。
(回想)
縦走の荷物は“要らない物”を持ち過ぎていた。10人用テント・ザイルなどの登攀具・スコップなど。これで1週間も動けるのか不安になったのもである。
30日(土)晴れたり曇ったり 夏山縦走(雷鳥平⇒前穂高岳):雷鳥平⇒五色が原 豆田 村岸 今井 山本
6:50に出発。2・3年生や神戸大の人が「ガンバレやー!」と声を出してくれた。2Pで一の越。ここまで凄い人で、まるで人がアリのようだ。しかし、我々よりも大きい荷物を担いでいる人や遅いパーティはなかった。一ノ越で休んでいると、研修を終えた村岸さんが登って来るのが見えて合流してから出発。沢山のピークを越えていくと5Pで五色が原TSに着いた。途中、六甲学園の大パーティと会い、今井のカオですき焼き缶2個・みかん缶・ビスコ2箱を貰う。五色が原にはもうすでに沢山のテントが張ってあった。上の廊下隊はツエルトを被って寝るそうだが、テントの我々は悪い気がした。
雷鳥沢TS6:50⇒一ノ越8:50⇒ザラ峠13:00⇒五色ヶ原TS13:50
(回想)
当時の立山は物凄い人で溢れていた。登山道も整備されていて舗装路であったせいかも知れない。この人だかりが一ノ越から五色ヶ原へ向うとウソのように静かになった。
31日(日)晴れ後ガス 五色が原⇒間山
TSより平坦な道をスローペースで行く。あっという間に鳶山に着く。頂上では二人の登山者が紅茶を沸かし飲んでいた。ここから越中沢岳までは平坦で起伏もそれほど激しくなく快調に進む。ここからスゴの頭までが岩を登ったり降りたりへつったり。しかも暑さも加わり死に物狂いだった。このため、頭からスゴ乗越までの下りで何度も転んだ。スゴ乗越の少し上の小さな雪渓の下でレーションを食べた。レーション後、転がるようにしてスゴ小屋になだれ込み一服後、間山に向う。小屋では間山まで50分と聞く。途中、僕が足をつり豆田さん・今井・山本は一足先にTSに向った。小屋からの間山の登りは想像以上にきつくブッ倒れる寸前にTSに着いた。雪渓が残っていて水には不自由しなかったが、ゴミが散らばっていてとても汚れていた。少し藪に入るとキジ場がありキジ紙だらけで先人のキジに気を付けなければならなかった。
TS5:10⇒越中沢岳8:50⇒スゴの頭9:40⇒スゴ乗越小屋12:00⇒間山TS13:30
8月1日(月)晴れ 間山⇒太郎小屋
今日はこの縦走中、最もしんどいと思われる薬師岳越えの日だ。しかし予想に反してじきに薬師に着いた。ここまではガレ場歩きで起伏も余り激しくなかった。快晴の為これから行く縦走路が良く見えた。しかし槍ガ岳が遥か遠くにポツンと見えた時、一同から溜息が起こった。薬師岳からの下りはダラダラと長く、それに暑さも加わってとてもしんどかった。軽装であれば駆け下りることも出来るのに。太郎小屋キャンプ地でレーションを食べ先に進もうとしたが、薬師沢小屋野営場は幕営禁止かも知れないので本日ここまでとする。夕方、大エッセン大会で一同満腹感を得る。
TS5:40⇒北薬師岳7:30⇒薬師岳8:35⇒薬師岳TS10:30
2日(火)晴れ 太郎小屋⇒三俣山荘
TSよりなだらかな起伏を行き、太郎小屋から薬師沢小屋目指してひたすら下る。途中、薬師沢野営禁止という立て札を見る。薬師沢小屋まで3Pで下り、桃缶(豆田さんのおごり)を食べた後、薬師沢横断のため一人しか渡れない不安定な吊り橋を恐る恐る渡る。対岸には沢山の人が休んでいた。雲ノ平へはひたすらの登り。ゆっくりゆっくり登った。2Pで平坦地に出て、そこから更に2Pで雲ノ平山荘に着いた。ここからの眺めは良くて快晴の下、回りの山々がとても美しい。僕はここで幕営かと思ったが、三俣山荘まで行くとのこと。一瞬唖然としたがCLの権力は絶対なので仕方なしに歩いた。小屋から急な登りを終え祖父岳をトラバース。そして黒部源流に向ってジグザグ道を下った。休憩後、三俣山荘目指してひたすら登りだ。しんどい!ブッ倒れる寸前で幕営地に到着。ホッとした。太平洋に台風6号が来ているとのこと。明日の快晴を祈りガスの向こうの槍ヶ岳を見ながら眠りに就く。しんどい!しんどい!しんどい!
TS5:05⇒薬師沢小屋7:45⇒雲ノ平山荘12:05⇒三俣山荘TS15:15
3日(水)晴れ 三俣山荘⇒槍ヶ岳
今日も晴れだ。縦走に入ってからずっと好天が続いている。TSから直接尾根を行かず東側を巻く。途中、お花畑が沢山あり双六小屋まで2Pで到着。休憩後、と沢岳の急登に直ぐかかり、幾つかのコブを越え最後のガレ場の急登後、槍ヶ岳山荘の着く。途中、硫黄尾根や北鎌尾根を見ながら西鎌尾根を行く。しんどい。頂上幕営地は狭く、化け物テント76Sは満足するように張れず10人用テントが5人用に変身した。この野営場には水場がなく、1リットル60円で水を買わねばならなかったが、元気な今井は遥か下に見える雪渓まで15リットル分の水筒を持って水汲みに行った。さすが。頂上小屋でラーメンを食べ岩崎宏美の歌を聞いた後、村岸さんと二人で槍の頂上に行った。思っていたより人が少なくて快適であったが、ガスがかかって穂高方面は何も見えなかった。台風の影響だろうか。それにしてもヘルメットを被っているのは僕と村岸さんだけであった。夜、隣の東京弁の奴等がうるさいので注意したら直ぐに静かになった。
TS5:20⇒双六小屋7:40⇒千丈沢乗越10:55⇒槍ヶ岳山荘13:05
(回想)
全員で槍の頂上には行かなかった。村岸さんと僕以外は過去に登ったことがあるから。いい加減な理由だ。この夏、北鎌から槍に登った。大天井ヒュッテから16時間かかった。頂上に着いたと同時に日没だったが、この時やこの2年後に登った時の事が思い出された。
4日(木)晴れ 槍ヶ岳⇒穂高岳山荘
昨夜は風が強くテントが一晩中揺れていた。稜線上のためであろうか。出発時、水がないので5リットル買う。300円也。南岳からは大切戸が始まり、梯子や鎖のある急な岩場のひたすらの下りである。最低部からの登りが大変で喘ぎながら北穂小屋を目指した。途中、落ちそうになる。北穂小屋直下で落石。当たりそうになり落とした奴に怒鳴ってやる。小屋では米とビスケットを交換してもらう。北穂小屋でレーション後、唐沢岳目指して、またも悪い岩稜歩きをする。唐沢岳直下でちょっとしたハングがあり、今井は「何でこんなんがあるねん。」と言って悩んでいた。頂きから穂高山荘が見えた時ホッとした。明日は下山なので全ての食料を平らげる。夕方、小雨が降ったが直ぐに上がった。
TS5:40⇒中岳6:30⇒南岳小屋7:40⇒北穂高岳10:35⇒穂高岳山荘13:40
(回想)
穂高岳山荘には数年前の夏に訪れた。ここでもこの縦走のことが思い出された。
5日(金)晴れ 穂高山荘⇒上高地
御来光と人のお尻を見ながら奥穂高岳目指して登る。風が強く手がかじかんで仕方ない。頂上からは比較的快適な道で、間もなく前穂高岳の分岐に到着。空身で頂上を目指す。重荷から開放されて飛ぶようにして頂上に立つ。黙祷後、縦走の成功を祝って全員で握手する。頂上からは富士山、南アルプスなどが遠望できた。岳沢ヒュッテまでの重太郎新道は悪路で閉口した。登路に使ったらどんなにしんどい道だろうか。ヒュッテからは2Pで上高地に着いた。だんだん標高も下がるにつれ暑くなってきて、自分の汗の臭いが鼻につくようになる。上高地は今までと全くの別世界で、ホットパンツやスカートの姉ちゃんが我々に変な目を向けていた。コーラで乾杯し、西鎌尾根から抜いたり抜かれたりしながら共にやってきた、ミレーとショウイナ―ドの兄ちゃんに写真を撮ってもらった。ここからは、マイクロバスで松本に下山した。一人1300円也。バスの中ではもう少し山に居たいような変な気分になった。松本で風呂に入り、23時59分発の夜行で大阪に戻った。
TS5:20⇒前穂分岐7:05⇒前穂高岳7:20⇒岳沢ヒュッテ9:25⇒上高地12:10
(回想)
上高地は“街”であった。これは今も変わらない。大混雑である。マイカー規制“なんのその”である。ただ、当時と明らかに異なるのは“外国人”が多いことである。韓国・中国などアジア系が増えた。山小屋の案内もハングル文字と中国語で書いてある。今年も槍沢から横尾へ向う登山道で道一杯に広がって歩く韓国隊(20名ほど)に出会った。「端を歩け!」と注意はしたが理解していないようであった。日本語が分からなかったら、事故を起こした時や、不明な事をを聞く時に困るのでないかと思った。
[夏山合宿を終えて]
今回の合宿は自分にとって得るところが非常に多かった。まず定着合宿中に風邪をひいてしまって3日間も寝込んだ事だ。それから絶対に遭難は起こすものではないと痛感した。社会人の八ツ峰。大市大。この時どれだけの人々が迷惑を受けたことか。最後にクラブに対して言いたいことは、縦走中、余りにも不要な物を沢山持ち過ぎたと思われる。テント・メンツなど。もう少し軽くして行動が拡大できる方がどれほど良いか考えさせられた。
(回想)
縦走は辛かった。荷物は40kg近くあったと思う。最後に少し書いているが、不要品が余りに多かった。大体、テントが76S(1976年夏に購入)という10人用であった。これに5人で泊まるのだから居住性は良かったが無駄であった。この巨大テントは中でタバコを吸うと入り口から奥が霞んでよく見えなかった。これくらい大きかった。このテントはその後も定着や土日山行では使ったが、縦走で使うことはこれが最後であった。誰がこれの購入を決めたかは知らないが、多くの部員がいた古き良き時代の象徴みたいなものである。このテントは他の古いテントと同様に、阪神大震災の時に、部室のドアが開きその時被災者に持っていかれたらしい。とんでもないところで役に立ったものだ。話がそれてしまった。不要品にはエンピ(スコップ)や登攀具・食器などがあった。これらを減らすだけで10kg以上軽量化できたと思う。もうひとつバテた原因に好天があげられる。縦走中、晴れ続きであった。休養日が欲しかった。やはり3日に1日ぐらいは休むべきであろう。当時はそんな発想は皆無であったが。こんな辛い縦走だから山行中は1日も早く下山したいと思っていた。でも今となってはいい思い出である。辛かったから余計に覚えているのかも知れない。ただ、私にとって夏のこのような大縦走はこれが最初で最後であった。この時のインパクトが強すぎたためであろう。
この合宿中の遭難は2件だったようだ。八ツ峰の方は、救助に向った大庭さんと要さんがバテバテで夜遅くに帰ってきたのでよく覚えているが、大市大の方は直接関わっていないためか全く記憶にない。遭難について、当時の私は偉そうなことを書いているが、自信があったのであろう。この後、色々な騒ぎを起こすとも知らないで。
最後に。下山した町が松本である。当時の私がこの10年後に住むことになるとは想像もしなかった。今でも夜に松本駅に行くと昔の仲間が居るような気がする.
〈用語確認〉ここで用語の確認をしておこう。1P(ワンピッチと読む)とは歩行時―50分歩いて10分休憩―の1時間を1区分とする。新人で入った頃、このペースが信じられなかった。高校時代は、30分―10分で、これでもきつかった。慣れれば問題はないが今ではとても出来ない。縦走中で辛い時は、歩き始めて30分もすると「あと何分で休める。」と腕時計を見ながら自分を励ましたものである。ただ、この50分―10分も原則で例外も多かった。特に冬の深いラッセルで遅々として進まない時は2〜3時間休まなかったり、夏でも頂上が近い時などは60分とか70分になったが、結構この10分や20分の延長が厳しくて後から堪えた。休憩時間もタバコを吸うリーダーの時は長めで、禁煙リーダーは短めと言われていた。一方、岩場での1Pは40mである。これも原則で20〜40mの間で適当なテラスなどがあれば1区分とした。当時のザイル(今はロープと言うらしいが)は40mが標準で、今みたいに45mや50mのものはなかった。ただ、墜落して伸びきって43mぐらいのものはあった。これはダブルザイルの懸垂下降のとき明らかに長さが違った。次の墜落で切れるのではないかと思った。こういうザイルはゲレンデで使った。ゲレンデでは“長い墜落はしない”という前提にである。
◎ 10月9〜11日 個人山行 口ノ深谷・奥ノ深谷 甲南大山岳部
9日(日)晴れ 豆田 要 山本
昨日の雨も上がり学校から阪急で四条河原町。そこから徒歩で京阪三条へ向う。三条発14:20発の京都バスで坊村。坊村には沢山の人がいた。ここから約1時間で口ノ深谷出合に到着。ここで今日は幕営だ。シラクラの壁がとても大きい。
10日(月)快晴 口ノ深谷遡行
山本の到着を待つ間、要さんと二人でF3まで偵察に出る。F3は大きく越せるかどうか悩んで帰ってくる。山本到着後ワラジを履き出発。出合からすぐにF1を見る。右岸をへつり滝頭に立つ。それに引き続きF2が現れ左岸を快適に登る。F3は落ち口がハングになっているが左岸にはボルトとハーケンがありそれを利用して一気に登る。暫く行くと左に曲り廊下状になった奥にF4。虹が美しい。滝の10m手前から左岸に取り付き7mほどフェースを登り更に凹角沿いに木を利用して越える。河原を暫くポケポケ行くとF5。これは左岸をフリーで越え落ち口に出る。F6も難なく通過してF7。これは左岸を5mほど登りトラバースして落ち口に出る。落ち口付近は勢いよく水が流れる。各自好きな所を自由に登っていくとF8・F9・F10・F11に出合い難なく通過。F12は落ち口付近にハーケンが2本あり水際を登る。F13・F14・F15を過ぎこの沢で最大のF16を見る。左のルンゼを登りバンドに沿って落ち口に出る。この滝の上からの眺めは最高だ。ここからは変化もなくなり中峠とワサビ峠を結ぶ登山道に出る。紅茶を飲んだ後、牛古場BCに戻る。
牛古場9:50⇒F4 10:30⇒F11 12:30⇒牛古場17:15
11日(火)晴れ 奥ノ深谷遡行
朝起きると少し曇り空で全員出発の足が鈍くなるが完全遡行目指して元気に出発する。出合でワラジを履く。5月に来た時よりも水量もかなり多く沢の様子も相当変わっていた。F1は右岸を登りF2も難なく通過。F3は赤い矢印に従い左岸をフリーで登り、そこから左岸を慎重にへつる。左に大きいルンゼを見て白く乾いたF4とF5は右岸を登る。F6の両岸は切り立っていて下は深い釜になっている。前回は右岸のハーケンを利用して高巻いたが、今回は勇ましくこの釜を泳ぐ。対岸まで僅か3m程であるが必死である。釜からF6の左岸を這いずり上がり廊下状になった所がF7である。左岸のバンドを伝って落ち口に出る。滑り易いので注意が必要だ。F8は右岸を登る。F9は左岸を登り簡単に越す。F10は右岸の巻き道を行く。F11・F12を過ぎ、淵を腰まで浸かって徒渉し左岸を登る。F13の落ち口付近がとても悪い。直ぐに右に巨石を持ったF14。右岸より5m直登しバンドに沿って落ち口に立つ。更に右岸をワラジを利かしてひたすら登ると少し廊下状になりF16。ここは右岸を慎重にへつる。この辺からは日が差して快適だ。皆、好きな所を登り登山道の丸木橋に到着。昼食後、牛古場BCに戻る。
牛古場8:10⇒登山道出合10:15
(回想)
これらの沢は滝も多く美しい。そこそこの岩登りが出来れば楽しい。ただ、技術的には口ノ深谷の方が一部ではあるが人工登攀(A1・A0)もあり難しく、且つ、距離が長く時間もかかった。対照的に奥ノ深谷はオールフリーで行けるし距離も短い。機会があればまた訪れてみたい。最後に口ノ深谷には天然わさびが多いと本で読んだことがあるが見つけることが出来なかった。
◎10月14日(金)晴れ 甲南バットレス 甲南大学山岳部
昼からバットレスに行こうと大森さんから誘われる。山本も交えと三人で行く。後から要さんが来ることになっていたが来なかった。フェースの左側のブッシュから2本登ったが足が震えとても恐ろしいので即戻った。
◎10月29〜30日(土・日)土日山行 蓬莱峡 甲南大学山岳部
29日(土)晴れ
岩に慣れるためビブラムで登る。小屏風正面を1本村岸さんと要さんと登る。途中、これまで無かったボルトが打ち付けてあったが、後でどっかのオッサンが引っ張ったら直ぐに抜けたそうだ。この後、大屏風を村岸さんと2本登る。快調だ。
30日(日)晴れ
朝、突然OBの平井さんが現れる。1年生は「日の当たる坂道」で平井さんのコーチでアイゼンワーク。2年生はロウソク岩辺りで新しい方式のコンテを練習する。昼食後、豆田さんと二人でアイゼンを履きロウソク岩辺りをさ迷う。10月下旬とは思えない暑さでバテバテになる。
(回想)
新しいコンテニュアンス(以下コンテ)は、山岳雑誌「岩と雪」に載っていたもので「大阪式コンテ」と呼ばれていた。従来のコンテは大森さん曰く「ザイルをザックの収納するのが面倒臭く。危険の無い所で行うザイルワークのひとつで“飾りみたいなもの”。」であった。実際、細い雪稜や急な岩場でのコンテでパートナーが落ちたらまず止めることは出来ないであろう。このような欠点を補うために出てきたものが「大阪式コンテ」である。名前の由来は大阪のどこかの山岳会が考え出したのでこのようになったらしい。やり方は簡単に言うと「従来のコンテと肩絡み確保を組み合わせたもの。」である。コンテとはパートナー滑落時に雪面にピッケルを素早く且つ思いっきり突き刺しザイルをシャフトに絡めて止めるもので、この時ピッケルに強烈な力が加わりブッ飛ばされるか、シャフトが木製の時は折れるかで失敗するケースが多い。このピッケル1本にかかる力を肩絡めで分散させる。そのため肩に1周ザイルを巻く。従来のものではザイルは自分の手から直接パートナーにつながっていくが、大阪式のそれは手から肩に回り脇の下から出る。実際試してみると確かに滑落阻止率は上がった。しかし、肩絡みをやったことのある人は判ると思うが相当肩に負担が掛かる。摩擦でザックの肩紐・シャツは破けるは肩は痛いはで散々であった。この時の練習で傷めた愛用のザック肩紐には今でも補強のガムテープが巻いてある。結局これは操作が煩雑である割にはメリットもなく本チャンで使うことはなかった。また、実際の山登りでも見かける事はなかった。基本はスタカットである。
◎11月5〜6日(土・日)土日山行 六甲ロックガーデン 甲南大学山岳部
29日(土)晴れ
キスリングを背負ってロックガーデンを目指す。2時間余りの行程であったが、うだるような暑さでとてもしんどい。本当に今年は暑い日が続く。テント地はとても狭く、やっと2張はれた。それからここには水が少なく困った。しかし僅かな流れにはカニやトビハゼ・カエルがいた。なぜ、こんな山のなかに・・・?夜、曇り空になる。
30日(日)曇り後小雨
朝起きると曇り空。小雨かな?と思い皆で喜んで?いたが練習と決め込む。岩場で新方式のコンテを試したが、宮田が薮内さんと練習中に誤って1回転し足首を捻挫する。歩けないので降ろすための担架を作り、2年3人と3年1人が担架を担ぎ、我々1年は先輩の荷物を分け40kg弱のボッカを行う。とてもしんどい。宮田は医者で診てもらったが大したことがなくて良かった。
(回想)
宮田の搬出は大変であった。部員の中でも宮田は重量級でとても重かった。そんな中、薮内さんは責任を感じてか交替もせず必死で担いでいた。担架はテントのポールとザイルを使って作った。小雨の中、とても“しんどかった”思い出がある。
◎11月12〜13日(土・日)土日山行 蓬莱峡 甲南大学山岳部
12日(土)晴れ後曇り
宝塚でバスの時刻が変わっていたため1時間半待ちぼうけ。その間全員でパチンコ屋に行く。蓬莱峡では本日岩登りはなし。明日雨になることを祈り眠りにつく。
13日(日)曇り時々雨
昨夜、雨が降ったり止んだりしていた。朝食の最中に小雨が降ってきたので行動開始が遅れる。8〜10時まではロウソク岩辺りを豆田さんと二人でさ迷い、10時から昼食までは住友さんと新コンテの練習をする。ほとんどの者がヤッケやジャンパーを破き嘆いていた。昼食後、小雨の中、豆田さんと大屏風と小屏風をアイゼンを付けて登る。アイゼンの感覚が掴めないのと軍手をはめているためとても恐ろしい。それでも大屏風3本・小屏風2本登った。
(回想)
秋は冬山に備えて蓬莱峡やロックガーデンでアイゼンワークをよくやった。落ち葉が一杯突き刺さり取るのに苦労した。蓬莱峡の裏山やロックガーデンは適度に風化していてアイゼンワークには最適であった。雪山を経験するまでは何の意味があるのか判らなかったが本番では結構役に立った。ここで使用していたアイゼンは“ゲレンデ用”で部室に転がっていた古い歯の磨耗した10本爪であった。本チャン用は歯が磨耗するので本チャンの氷以外は使わなかった。アイゼンを履いての蓬莱峡はちょっとスリルがあった。特に軍手をはめた時は最悪で緊張の連続で怖かった。ピッチグレードがひとつ上がったような気がした。そのためあえて難しいルートは登らなかった。よく登られるルートは、アイゼンの前爪で岩は削られていて2本穴があいていた。皆が使うメーカーのアイゼンはきっちり前爪2本が噛んだが、そうでない外国のものなどは1本しか入らず不安定で苦労した。私のゲレンデ用の“TANIのアイゼン(国産)”はこの規格にぴったりであった。
◎11月17〜20日 11月合宿 富士山 甲南大学山岳部
【参加者】( )は学年
大森(4)・大庭(3)・川口(3)・豆田(3)・村岸(3)・要(2)・住友(2)・薮内(2)・今井(1)・宮田(1)・山本(1)
17日(木)
ちくま2号(21:46発)で離阪。明日から大学祭が始まるのに。
18日(金)曇り後晴れ
塩尻と大月で乗り換え富士吉田へ到着。タクシーで佐藤小屋(五合目)へ向う。一人1300円也。今年は極めて雪の量が少ないとタクシーの運転手さんが教えてくれる。佐藤小屋では小屋の人が暇そうにしていた。
19日(土)晴れ 富士山頂上直下で雪練
昨夜、小雨混じりの強風で冬用テント74Wの上から冷たい水を顔面に受け眠れなかった。昼食後、雪上訓練のため吉田大沢を登る。八合目辺りまで小石がボロボロと崩れる、とても嫌らしい所で何度も転ぶ。八合目からアイゼンを付け雪の上を行く。アイゼンがよく効き快適だがスリップしたら一巻の終わりだ。恐らく下まで止まらないであろう。4P半登った末、九合目半に到着。レーションの後ストッピングをする。時々、自衛隊の飛行機が飛んでいるのを見る。それにしてもここからの眺めはとても良い。ストッピングは雪質がとても良いのでよく止まる。特に薮内さんは凄い。14〜5m流しても一発で止まるのだ。一同びっくり。ピッケルのせいだと皆は言うのだが・・・。この雪練で怪我人(うちみ・ひねり等)が続出し早目に切り上げる。頂上が直ぐ目の前なのに残念だ。帰りは沢筋を下らずに尾根を下る。ジグザグ道と頭痛のためとてもだるい。途中、大勢の登山者と出会う。BCまで2P。夜、CLから明日下山すると聞かされる。余りにも雪が少ないからだそうだ。
・BC6:30⇒雪練地11:00⇒BC15:05
20日(日)晴れ
昨夜からとても風が強く、テントが飛びはしないかと不安な夜であった。朝起きると76Sは風下のフライの張綱が全て飛ばされていた。それからメンツ(食器)や鍋には砂が入っている。朝食後直ぐに撤収にかかる。意外と重い荷物だ。佐藤小屋からジグザグ道をポケポケ下り3P目、樹海の中でトラックに乗せてもらう。振り返ると頂上付近に少し雪のある富士山がとても美しくすばらしい。しかし、富士山は眺める山であって登る山ではないというのが皆の一致した意見のようだ。浅間神社でトラックを降りそこからバスで御殿場に向う。快速とドン行列車を乗り継ぎ大阪へ帰る。21:30。
(回想)
知っての通り富士山は、標高4000m弱の国内で最も高い独立峰である。また首都圏からも近い。量は多くないが降雪も早い。従って当時のこの時期(晩秋)には冬山前の雪上訓練のためかなりの登山者が訪れていた。この時も東京の社会人山岳会(山学同志会・緑など)が来ていた。結局このシーズンは雪が少なく満足な雪練も出来なかったが。この山は他の山と違って独立峰でしかもバカでかい。風も強く吹いている時間が長い。そのため過去に強風と突風でテントや人が吹っ飛ばされたりした。雪面も強風と低温でピカピカに磨かれていてスリップすると木など何にもないハゲ山なので下まで止まらない。現にこの数年前、頂上付近から滑落し六合目辺りで止まった登山者がいた。この事故の搬出に関わった当部先輩からは、服は氷との摩擦のためボロボロになっていたと聞いた(この人は搬出中に亡くなった)。正に氷の滑り台である。対策として我々はアイゼンとピッケルの歯をヤスリで研いだ。これが大変な作業で何日もかかった。私はアイゼンの歯を毎日1〜2本づつ暇を見つけてはマメに研いだが片方12本もあるので嫌になった。機械でやる人もいたが、熱を持つために金属が劣化すると言われていたので、早いが私はやらなかった。このおかげでピカピカに研がれたアイゼンとピッケルは良く利いた。強風に対しては耐風姿勢の練習をした。ヒトは普段2本足で立っているが、これにピッケルを雪面に突き刺し屈み3点で身体を支持する(ピッケルを持ちそこに強風が吹いてくると自然とこの体勢になる)。天然の風(こんな単語があるのか判らないが・・・)は扇風機などの人工の風と違って一定の風力で吹かない。丁度我々の呼吸のようで強弱がある。ビュンビュンと猛烈な風が吹いている時は耐風姿勢を取って耐え、収まった時に移動する。やってる本人は必死だが傍目からみたら、キスリングを背負った姿は、海岸をチョロチョロ動く小ガ二のようで滑稽だろう。結局、この耐風姿勢はこの時使うことはなかったが、その後、知床や後立では役に立った。最後にこの山行では頂上を踏むことはなかった。今でも残念で仕方がない。下山が決まった夜には、余りに短い合宿と頂上アタックの取り止めに不満も強かった。これ以来、富士山は訪れていない。遠くから眺めるだけである。大学山岳部員として日本の最高峰を踏んでいないのは変な気がする。いつでも行けそうであるが、富士山に行く暇と金があれば他の山に行ってしまう。その方が面白い。
◎12月3〜4日(土・日)土日山行 ボッカ訓練(市ケ原⇒摩耶山)甲南大学山岳部
3日(土)晴れ
15時前に学校を出発。いつもより人数が少なく7人だ。風邪や怪我やAAVKのコンパのためだ。本山駅から六甲道駅に向うのだが、僕と今井は三ノ宮まで行くと信じ込んで乗り越す。六甲道からバスで布引まで行き、そこから1時間足らずで市ケ原に到着。テントは装備係の不注意から、本体NO3・ポールNO2・フライ72Sのチャンポンテントとなったが何故かきれいに張れた。
4日(日)晴れ
1年45kg・2年50kg・3年不明の重荷を背負って出発。天狗道から摩耶山を目指す。稲妻坂では死にそうになる。しかし3Pで頂上へ。「物足りん!」と言っていた人もいたが信じられない。昼食を取り遊んだ後、薮内さん・今井・僕の3人は歩いて学校に戻る。縦走路から油コブシ道・寒天道を辿る。とてもしんどかったが、どうにか学校に到着。途中、関の友人に会った。
◎12月10〜11日(土・日)土日山行 ボッカ訓練(蓬莱峡⇒一軒茶屋)甲南大学山岳部
10日(土)晴れ
13時過ぎに学校を出発。昨夜、平井さん宅で飲みまくって徹夜をしたためか1・2年生は元気がない。15時頃、蓬莱峡に到着。テント設営後、直ぐに要さんとロウソク岩辺りをさ迷いに出掛ける。一ケ所落ちそうになる。夜、隣のテントがとても騒がしいので怒鳴ってやる。
11日(日)晴れ
5時起床で7時出発の予定だったが川口さんが来ないので8時までもう一度寝る。8時から小屏風でアイゼンを着けトラバースの練習をする。9時ごろボッカを始めるため出発。全員45kg以上。僕は50kg担ぐことにする。6Pで一軒茶屋に着く。こんなにしんどいのは夏山合宿の縦走以来だ。茶屋でうどんをご馳走になったあとヘッドランプを付け住吉道を下る。3時間で学校に到着。時計を見ると21時20分であった。とてもとてもしんどいボッカでした。
◎12月25日〜1月7日 冬山合宿 毛勝山北西尾根⇒毛勝山 甲南大学山岳部
【参加者】( )は学年
縦走隊:納富(4)・川口(3)・住友(2)・薮内(2)・渋谷(OB)
サポート隊:豆田(3)・大庭(3)・要(2)・今井(1)・山本(1)
【計画】縦走隊:宇奈月⇒北方稜線⇒毛勝岳 ・サポート隊:毛勝岳北西尾根/猫又山
12月25日(日)離阪
山で必要な道具を買うため夕方まで走り回る。昼12時、列車の場所取りのため大阪駅へ荷物を置きに行く。思ったより人が少ない。平井さん一家・松下さん・大森さん・村岸さん・宮田・ワンゲルの田中等が見送りに来てくれた。21:30頃、忘れたヤカンを父と兄が持ってきてくれる。22:10発急行「北国」で大勢の人に見送られて出発。さあ冬山合宿の始まりだ。
(回想)
初めての冬山は非常に緊張した。冬山は暗い・寒い・辛いなど陰湿のイメージが強い。また、出発前に平井さんから「絶対死ぬな!」と言われもした。この陰湿な冬山に行きたいがために山岳部に入部したのに期待感より不安感が大きかった。実際この山行はきつかった。ヤカンは父と兄が持ってきてくれた。助かった。ヤカンがなければ合宿中にお茶も飲めなかっただろう。
26日(月)小雪 入山 魚津(タクシー)⇒奥平沢⇒片貝山荘
魚津4:47着。停車時間が短いので必死で荷物を降ろす。駅で弁当を食べ予約しておいたタクシーで奥平沢へ向う。途中、クルマがスリップして立ち往生する。雪が多いため奥平沢で降ろされて前途に不安を感じる。20cm程の積雪。2P程ツボ足で行く。しかし3P目でワッパを付ける。途中2人で下山する阪大の人と会う。4Pのトンネル手前の林でレーションを取る。雪の量も次第に増え6Pで片貝山荘に付く。横には発電所がある。それにしてもバテバテだ。最後は豆田さんにザックを交換してもらう。ここはとても快適で住み心地の良い所だ。ここに不要な物はデポする。夜ささやかな入山コンパをする。
・奥平沢6:25⇒オノマ第4発電所10:45⇒片貝山荘BH14:30
(回想)
数年後知ったが、この阪大の二人のうち一人は同期のNだった。体調不調のため上級生に付き添われての下山だった。彼は非常に負けん気の強い“生意気な奴”だった。他大学の山岳部員からも嫌われていたと思う。3年の夏山でのことである。夏の真砂沢には室堂から剣沢経由で入山するのが普通だった。しかしこの年の阪大は黒四ダムから内蔵の助谷経由での入山となった。このルートは室堂ルートに比べて距離は1.5倍ぐらいだし、標高が低い分暑く体力の消耗が激しい。50kgの重荷を担いで1日での入山は難しいように思えた。そこで今井が合宿前にたまたまゲレンデで会ったNに「内蔵の助谷経由では1日で真砂に入れるのか?無理やろ。」と聞いたところ「槍が降っても入れるワ。」と言ったそうである。結果は2日かかった。今井から「槍が降ったんか?」と言われ、関学の芦田からは「槍が降っても来るんだから槍じゃないだろう。」とからかわれていた。このせいかも知れないが雪練場所の事で私が「毎日なんでうちと同じ所でやるんか?」と冗談で言ったら「オマエ何を言うとるんや。この時期あそこしかないだろ。」とムキになっていた。冗談の通じない奴と思った。この冬の下山も「あんなとこ行ってもつまらん。」といきがっていた。そんな変な奴であったが登攀技術は高かったらしい。4年の5月に剣尾根を登ったという。Nがオールトップでの完登だった。当時の剣尾根登攀は八ツ峰より数段難しいと思っていたので驚きだった。その後Nとは会っていない。私はいつも負けん気が余りに強いのでいつか事故を起こすと思っていた。変わった奴だ。
27日(火)吹雪 BH⇒モモアセ山直下
BHよりトレースに導かれて取付に向う。取付より苦痛の3Pで尾根上に飛び出す。急登にうんざりする。しかし阪大のトレースがありとても楽だ。尾根上で阪大に会う。尾根より3Pで少し広い所がありテントを張る。ここは両方が切れていてとても不安な所だ。夕方交信で縦走隊の声がチラッと聞こえる。
・片貝山荘BH7:10⇒支尾根取付9:00⇒1390mTS13:10
28日(水)小雪後晴れ TS⇒P1⇒TS(荷上げ)
TSより荷上げをP1直下まで行う。ラッセルがとても苦しい。深みにはまると雪の下のブッシュに足を取られ厄介だ。だが突然カラッと晴れて回りの山々がとても良く見え感激する。9:09の交信で縦走隊がまだ宇名月尾根1200m地点にいると聞き一同驚き。遅すぎる。P1直下のデポ地でレーションを食べていると阪大が登ってきた。そこからTSに戻ってシュラフなどを干していると富山大WVが「いい天気ですね。」と言いながら登って行った。17:05の交信で縦走隊が別叉のコルにいることを知る。
・TS7:30⇒デポ12:10⇒TS14:00
29日(木)快晴後曇り TS⇒P2BC
朝起きると空一面の星だ。昨日のトレースを使って2Pでデポ地に着く。昨日とかなり違う。デポ地を通り過ぎP1直下で下山中の芝浦工大と出会う。途中、富山大WVを抜く。デポ地より2PでP2末端に到着しBCを設営する。ここからは、遠く北方稜線・五竜・唐松・鹿島槍などがとても良く見え全く飽きない。BC設営後デポを取りに行く。大庭さんはひとりで毛勝山北峰まで偵察に行く。夕方、あんなに良かった天気が崩れ始める。
・TS6:30⇒BC10:30
30日(金)吹雪→ガス→晴れ 沈殿⇒毛勝山北峰アタック
昨夜から吹雪が続き朝起きると一番にテントラッセルを行う。5:00から朝食の予定だが2時間遅らせて7:00からとする。朝食後トランプなどをして過ごす。9:09の交信で、縦走隊の方は夜に雨が降ったことを知る。今日は沈殿の予定だったが11:00頃より晴れ間が出始めたので毛勝山北峰アタックに向う。阪大が先行している。ピークまで40分で着く。ここからは剣岳が鋭く目に映る。ピークの雪庇を利用して富山大WVは雪洞を掘っていた。夕方、阪大は下山した。縦走隊はサンナビキ山西峰直下にいるそうだ。明日は猫又山アタック予定。
・BC12:30⇒毛勝岳北峰13:10⇒BC13:55
31日(土)雨 沈殿
猫又山アタック予定だが雨のため沈殿。うっとうしい。日本の南岸に前線が停滞しているようだ。今年も残すところあと一日。名残惜しい気もする。街では正月に向かってさぞ忙しいことであろう。それにしてもよく降る雨だ。テントの中は水深3~5cmだ。今井は風邪でよく咳をする。山本は全身ビショ濡れでエアーマットを持ってこなかったのを悔やみ苛立っている。そしてよく酒を飲む。要さんは盛んにタバコを吸っている。昼頃からラジオは歌謡曲ばかりで嫌になってくる。夕方の交信で縦走隊から「良き年を!」との声。風に備え入口に高さ1m程のブロックを積む。夜、全員遅くまで紅白歌合戦をとても聞き取り難いラジオで聞く。
(回想)
日本の冬山では雨が降ると聞いていたが、大学4年間で雨に降られたのはこの時だけである。今回の山域の標高を差し引いても、この冬は相当の暖冬だったと思われる。冬山での雨は本当に厄介である。まず服・靴など濡れたらまず乾かない。これらが雨のあとにやってくる寒気でカチカチに凍る。下手をすると指の凍傷や最悪では凍死する。私は今までえらい目に遭ったのは雨の降る晩秋である。昼間の雨が夜に凍って全てがバリバリである。テントは“板”になりザックには入らないし、ザイルは“針金”で懸垂の時など制動が利かず滑って非常に危険であった。この冬はずぶ濡れで羽毛シュラフの中身が団子のように凍った。寒かった。また、冬用テントは本体と底がくっついた一体型で、防水よりも通気性を優先しているため雨水がテント内に入り水溜りとなった。
1978年1月1日(日)濃いガス 沈殿
今日は元旦だ。街ではさぞ楽しくやっていることだろう。朝食後、日本酒を少しばかり飲む。9:09の交信で縦走隊から「明けましておめでとう!」の声を聞く。昼間でトランプを行う。昼過ぎ“ぜんざい”を食べる。美味い。夕方の交信で縦走隊が“ウドのコル”にいることを知る。雪庇上にテントを張ったそうだ。
2日(月)雪→晴れ 沈殿
アタック予定だが雪のため沈殿。昼間で寝たりトランプをしたりして過ごす。12:12の交信で縦走隊が“ウドの頭”にいることを知る。昼過ぎ縦走隊のテント地を作っていると遥か彼方に縦走隊が点々で見えた。夕方16:04の交信で縦走隊は今日中にBCに到着するとのこと。16:30。大庭さん・要さんがサポートに毛勝山北峰まで行く。20:30頃バテバテの縦走隊がやってきた。懐かしい。納富さんは凍傷で足の指に水疱が出来ている。
3日(火)雪 沈殿
アタック予定だが天候不順のため沈殿。朝食後77Wを張り直す。僕は74Wへ替わる。人が昨日から急に増えとても料理が面倒だ。しんどー。
4日(水)雪・濃いガス
待ち切れずアタックに出るがガスのため毛勝山北峰で天気待ちをする。しかし晴れる兆しが全くないので、先日、富山大が雪洞を掘っていた辺りに新たに雪洞を作る。そこでレーションを取る。雪洞はとても快適で外は吹雪なのに中はとても暖かい。今日はとても寒く、昨夜、右の登山靴が凍り、これを履いてアタックに出たため凍傷になりかける。BCに戻ってマッサージをするが足の指がとても痛い。15:30。富山県下には大雪注意報が出ている。それに大陸からはこの冬最大の寒気団がやってくるそうだ。今日、初めて毛パッチを穿く。それにしてもよく降る雪だ。嫌になる。それから食料が1日分無くなり6日に下山予定。夜、何回も雪崩の音を聞く。とても不安になり先輩にそれを告げると、一言「大丈夫や!」とのことでした。
・BC7:30⇒毛勝岳北峰9:10〜12:10⇒BC13:05
5日(木)吹雪
昨夜21:00と02:30に2回テントラッセルがあり余り眠れなかった。朝食後もう1回ラッセルを行う。掘っても掘っても積もる雪にうんざりする。昼食後、薮内さんとホエーブスで個装の羽毛製品を干す。15:30ラッセル。明日下山なので夕食は大エッセン大会。久しぶりに沢山食べる。20:00ラッセル。今日はラッセルばかりでもう嫌だ。
6日(金)吹雪 下山 BC⇒片貝山荘
朝起きると凄い雪でテントは八分ぐらい埋まり出るのに苦労する。撤収の時掘り出すのに1時間半ぐらいかかる。P2からは全員でラッセルするが物凄い積雪に嫌になる。P2からP1まで時間を喰う。往きとえらい違いだ。P2とP1のコルの少し上で大庭さんが雪庇を踏み抜き、突然我々の視界から消えビックリする。5〜6m落ち大爆笑。今井が、P1の急斜面の下り気味のトラバースで頭から突っ込み谷へ落ちかけ皆で引っ張り上げる。1380mのモモアセ山直下のTS跡でワッパからアイゼンに履き替える。ここから、だるい足を引きずって尾根を行く。下降路の尾根が判らず苦労する。結局、往きよりもひとつ手前の尾根を下る。この下りでアイゼンが外れる者が続出する。川口さんは片方のアイゼンを無くした。下降終了点より少し上で30〜40m滑落し木にキスリングが引っ掛かり、かろうじて止まる。死ぬかと思った。納富さんに助けてもらう。取り付きで2回目のレーションを食べる。僕はバテバテなので渋谷さんとふたり遅れて出発する。片貝山荘に倒れ込みエッセン大会。夜中まで話をする。明日下山なので皆とても機嫌が良い。
・BC9:30⇒支尾根下降点16:20⇒片貝山荘19:05
7日(土)雪→雨 片貝山荘⇒魚津
6時起床。今合宿で最も熟睡する。山荘を掃除してから出発。膝ぐらいのラッセル1Pでトンネル出口。この辺から雨が降ってきた。スキーの跡が片貝山荘から続いていてそれをたどる。4Pで工事現場に着き何日かぶりかで人に会う。おばちゃんからミカンをもらう。美味い。そこから15分程歩いていると工事のトラックが通りかかり魚津まで乗せてもらう。民家のガラスに映る自分達の姿を見ると笑いが込み上げてくる。魚津でラーメンと玉子丼を食べた後、15:22発の立山2号で帰阪する。ここで泉尾高校の高畑先生・石田先生・中井・横谷それに大勢の後輩に会う。大阪までとても楽しく過ごす。長かった冬山は終わった。
・片貝山荘8:30⇒工事現場13:00⇒魚津駅14:00
(冬山合宿を終えて)
初めての冬山であるため不安がとても多かったが無事下山できた。まず、冬山への不安から不要な物を多く持ちすぎたように思われる。極力軽量化を計るべきだった。次に、パッケ(荷作り)と体力は万全でなければならない。パッケが無茶苦茶であれば疲れも早くやってきてバテる。また、冬山前は充分なトレーニングをしてベストコンデションで臨みたい。走ることで下半身を鍛えることが重要である。最後に冬山では常に回りに気を配り絶対に気を抜いてはいけない。冬山での事故は死を意味する。以上から冬山とは山登りの全ての知識を統合したものと思われる。
(回想)
初めての冬山は無事終わった。ルート自体はザイルを出すような悪い所もなく今から思えば大した事はないが、とにかくしんどかった。要領も掴めなかったし、行動する時は、一日中目一杯動いた。特に、下山1日目は、朝から真っ暗になるまでだった。バテバテでスリップしたが幸い木に引っ掛かり何事もなかった。片貝山荘は電気もあり水もすぐ脇の川から汲み上げることができ快適であった。ただ、水洗トイレを流した途端に、詰まっていて(凍結していたと思う)溢れてしまった。25年近く前で時効だろうが春には掃除が大変だったろう。この冬山が終わってから足の指先が痛かった。長期間低温にさらされて血管が縮み、それが大阪のような暖かい所に戻った途端に血管が開いたためだろうか。暖かい所にいると痛みが出て冬だというのにサンダルであった。寝る時も布団を掛けると痛いので足先だけ出して寝ていた。これは、この後も冬山のあとに起こった。また、卒業してからも何年かは季節の変わり目などに起こった(最近は出ないが)。
◎3月5〜21日 春山合宿 北海道 知床半島縦走 甲南大学山岳部
【参加者】( )は学年
大森(4)・大庭(3)・川口(3)・豆田(3)・村岸(3)・要(2)・住友(2)・薮内(2)・今井(1)・宮田(1)・山本(1)
【計画】羅臼温泉⇒羅臼岳⇒知床岳⇒知床岬
5日(日)小雪 離阪 大阪⇒青森
朝9:00に大阪駅集合。今井が4万円を落とし泣きそうにやって来た。渋谷さん、ポッチさん、納富さんに見送られ10:20発の特急白鳥で青森に向かう。途中、富山を過ぎた辺りで事故車を見た。しかし長い列車の移動にうんざりする。青森には5分遅れて23:55に到着。直ぐに0:10の連絡線に乗る。青森は小雪だ。船では昨夜離阪した“きたぐに”隊と会う。
(回想)
夜行の急行“きたぐに”隊(豆田さん達)は前日に出発した。当初は舞鶴から小樽までフェリーの予定だったが悪天のため欠航となり列車に変わった。今井はバイトで稼いだ資金。悲壮感が漂っていた。フィルムケースに現金を入れていたそうだが、結局出てこなかった。特急白鳥では秋田大の鉄が専門の教授と同じ席で色んな話をした。残念ながら名前は聞かなかったが。今では北海道は青函トンネルで陸続きだが当時はフェリーに乗り換えた。青森は正に石川さゆりの「津軽海峡冬景色」のようであった。♪上野発の夜行列車降りたときから青森駅は雪の中〜♪。
6日(月)晴れ 青森⇒札幌
とても寒い中、起こされ函館に到着。5:05発の急行ニセコ1号で札幌に向かう。初めての北海道。見るものが全て珍しい。10:10に到着。荷分け後、夜まで解散(自由行動)となり名物の札幌ラーメンを食べる。400円也。家にTEL。北大に行く。余りのデカさに驚く。21:30発の急行十狩勝で釧路へ向かう。隙間風が激しくとてもとても寒い列車だ。
(回想)
先日30年ぶりに出張で北海道を訪れた。函館駅も札幌駅もリニューアルして昔の面影は無かった。特に札幌は大都会。当時、地下鉄が出来たばかりで“新車”だったが今ではかなり古くなっていた。ラーメンも600〜700円。物価も上昇。
7日(火)快晴 札幌⇒羅臼
真っ赤な太陽で目を覚ます。離阪3日目嫌になる。それにしてもボロい列車だ。釧路と標茶で乗り換える。昼頃、根室標津に着く。バス乗車まで時間があるので皆で流氷の上を歩きに行く。スケートリンクに雪が積った様な感じだ。食べてみると塩っぱかった。ここから羅臼まで2時間。やっと登山口に着いた。夜、中町さんの友人の長谷川さんも交えてコンパをやる。昆布とサケを干したものが美味く印象的だ。
(回想)
羅臼までは遠かった。3日もかかった。正直、嫌になった。現在、標茶から標津の鉄道は廃線。バスで代行されているらしい。時代は変わった。中町さんは写真屋さんでワンゲルからの紹介。長谷川さんは地元漁師。この時期スケソウダラを獲っているとおっしゃっていた。ワンゲルは夏に海岸沿いに知床岬に達していた(ゴムボートも使用)。その時、長谷川さんにお世話になったようだ。
8日(水)快晴 入山 羅臼⇒700mTS
6:30に出発。いよいよ登山開始だ。羅臼温泉まで1時間。凍っているアスファルト道を行く。温泉からは除雪してなくてスキーを履きリンドウを1P程行き二股でその間の尾根に取り付く。ワッパで行くがとてもしんどい。しかし、雪は乾燥していて軽い。バテバテで幕営地に着く。ここから流氷を伴った国後がよく見える。全く良い天気だ。でも風が強いのにはうんざり。ここは700m地点。
・中町宅6:30⇒羅臼温泉7:20⇒尾根取付9:30⇒700mTS13:30
(回想)
知床にはスキーを持って行った。これには不要論も出たが「山域がなだらかでスキーを積極的に使える。」と言う理由で持参したが甘かった。3週間分の食料に冬山完全装備。それに7kgもあるスキー板。キスリングは軽く40kgを超えた。正直うんざり。当時の板は重くてシールの性能も最悪。靴は登山靴。とても背負う事は出来ず板の先端に穴を開け、長さ2m位のシュリンゲを通して腰やザックに付け引きずった。結局スキーを使ったのはごく僅かで入山と下山時くらいだった。40kgの重荷でスキー初心者が上手く滑れる訳もなく転倒者続出。滑る時と転んだら起きるのに体力を使いバテた。
9日(木)快晴 TS⇒羅臼平
TSより尾根の急登をワッパで登る。アイスバーンに新雪が積もり緊張する。クラストしてきたのでアイゼンを着ける。これを過ぎるとなだらかになってきたのでスキーを着ける。とてもしんどい。薮内さんが1回転して谷へ転げ落ちる。意外と時間を喰う。ルートファインディングに悩み地図と睨めっこしながら進む。羅臼平への登りで急登のため全員バテバテになる。宮田と要さんの疲労が激しく遭難するのではないかと思った。しかしここは風がきつい。このためクラストしている。顔を凍傷にやられた。つらい一日だ。
TS6:30⇒羅臼平16:40
(回想)
羅臼平までの登りが長かった。途中で日が暮れ真っ暗。朝から動いていたので疲れもピーク。それに強風も加わり私も途中でバテて大庭さんに荷物を持ってもらった。やっとの事で、だだっ広い羅臼平に着いた。途中で何人かは荷物をデポした(翌日回収)。かなり危ない状況だった。
10日(金)快晴 沈殿
昨夜就寝が遅かったために起床を7時とする。快晴にもかかわらず強風である。2年生と大庭さんが昨日デポしたザックを取りに行く。僕はテントを77wから74wに移る。
宮田の調子がとても悪く沈殿となる。二つ玉低気圧が接近中とのこと。ここ羅臼平から妙な格好をした羅臼岳が良く見える。意外と近いようだ。
(回想)
この二つ玉低気圧(春二番?)のおかげで偉い目に遭った。低気圧の墓場の強風は台風の様であった。海から直接受ける風がこれほど強いとは想像もつかなかった。よくテントが持ちこたえてくれた。
11日(土)天気不明(多分ブリザード?)暴風 沈殿
朝起きると物凄い風。羅臼岳アタックは即中止。強風で一歩も外に出られない。全員でテントを押さえる。10時に朝昼兼用のレーションを摂る。14時頃、住友さんが強風の中小便のために外に出たが立っていられないほどの暴風とのこと。少し吹流しを開けただけでテントの中に1cm程雪が積もった。それに物凄い音で隣のテントの声が全く聞こえずにトランシーバーで話した。一歩も外には出られないので17時頃、水でα米を溶かし食べる。まずい!ラーメン食べたい!夕方風が弱くなり外へ出る。カツオの缶詰を食べる。美味い!
(回想)
テントがぶっ飛ばされそうな暴風。まるで台風の中でテントを張っている様だった。1日中テントの四隅を押さえていた。これだけの風はその後も経験なし。全員テントの中で小便をした。空のα米の袋に用を足すのだが溢れそうでビビッた。また他人が見てる前で用を足すのには物凄い抵抗があり、小便が漏れそうなのに中々出なかった覚えがある。唯一の女性部員の村岸さんもテントの中をツエルトで仕切り済ませたそうである(私とは違うテント。今井談)。この件に触れることは合宿中タブーとなっていたが、下山後の報告会で住友さんが暴露してしまった。この時は一同唖然!
12日(日)曇り後晴れ 羅臼岳アタック
離阪7日目。明日、川口さん、豆田さん、宮田の3人が下山予定。10:30頃晴れ間が見え出し羅臼岳アタックに出る。アイゼンを付け快適だ。頂上付近が岩に雪が付きとても嫌らしい。僕だけ10本爪アイゼンで困った。ガスの切れ間から氷河のような太平洋と流氷で埋まったオホーツク海が見える。昼過ぎカラスが2羽飛んで来たが雪を投げると逃げていった。明日の快晴を祈る。
13日(月)晴れ TS⇒700m付近
4時起床だが疲れているためか30分遅れて起きた。3人が下山し9人になる。自分も早く下山したい。アイゼンを付け直ぐに三ツ峰の登りにかかる。このピークは三つありその間を上手く抜ける。所々吹き溜まりがあり苦労する。コルまではクラストして快適に進む。サシルイ山へは頂上付近の鞍部を目指してピークの少し西側を行く。ピーク直下の下りが急斜面で引いているスキーが邪魔になる。サシルイ山の中腹辺りから斜面も緩くなってきたのでスキーで下る。転倒者続出。サシルイのコルを少し行った所でワッパとアイゼンに履き替える。オッカベケ山は東側を巻きだだっ広いオッカケベのコルに出る。ここでレーションの後、南岳ジャンクションへの登りにかかる。ピークに近づくにつれ急登になる。小槍と分かれる尾根からオホーツク海側が切れている。ピークから少し下に小槍。そして遥か硫黄岳。更に我々が進もうとしている稜線が快晴の空の下よく見える。南岳・知円別岳・その他の小さいピークは地図からも判るようになだらかな太平洋側の斜面を使って全て巻く。東岳まではアイゼンで快適に進む。このピークからは北東に延びる広い尾根を848.5ピークを目指してひたすら下る。この下りはハイ松に足を取られ苦労する。一度はまると脱出するのに思わぬ体力と時間を喰う。本日は848.5Pより少し下った所で幕営となる。快晴で気温も高く汗がよく出た一日だった。早く下山したい。下山隊は応答なし。
TS7:00⇒三ツ峰のコル7:50⇒サルシイのコル9:40⇒南岳J12:00⇒TS14:40
(回想)
宮田が川口さんと豆田さんに付き添われて途中下山した。宮田の参加については出発前から賛否が分かれた。私も精神的に弱く、よくバテてはいたが、宮田はもっと弱かった。冬山にも怪我で不参加。今回は厳しかっただろう。また、4日前の悪天の羅臼平の登りでピッケルを折っていた(木のシャフト)。不幸が重なった。ただ、下山していく宮田を見て正直なところ、私も帰りたかったが・・・。川口さんは宮田の下山後再入山する予定であったが、以後、会うことはなかった。またトランシーバーの交信もつながらなかった。
14日(火)快晴 TS⇒トッカリムイ岳西側
3:30起床。前日に続き昨夜は寒くて眠れなかった。TSからアイゼンで直ぐ下りにかかる。パッケが悪いのかとてもしんどい。2P目ワッパを付ける。樹林帯でよく潜るからだ。ルサ乗越まで緩い下りが続く。この最低コルからは小さいピークがたくさんある。そしてここからブッシュが急にきつくなり担いでいるスキーがとても邪魔になり困った。本日はトッカリムイ岳西側の樹林帯で幕営。テント設営時より天候が怪しくなってきた。下山隊応答なし。
TS6:15⇒ルサ乗越12:20⇒トッカリムイのコル14:00
15日(水)曇り⇒小雪
3:30起床。6:10出発。ワッパとアイゼンを付ける。少し新雪が積もっている。ルシャのコル辺りで仏教大の赤旗を見つける。ムシャ岳の登りでハイ松に足を取られて思わぬ労力を使わされる。風雪が強くガスも濃くなってきたので3P目のムシャ岳東側で幕営。12:30沈殿食のラーメンを食べる。
TS6:10⇒ムシャ岳東側TS9:05
16日(木)ガス 沈殿
4:30起床。朝食後即寝る。風が強い。10:30頃レーションを摂る。12:00沈殿食のぜんざいを食べる。今日は晴れているのにガスがかかってうっとうしい。入山9日目。半分以上が過ぎた。早く下山したい。そしてメシを腹一杯食べたい。昼過ぎ晴れ間から海が良く見える。
17日(金)ガス ルシャ岳東側⇒コル降り口
3:30起床。起床時は快晴であったが出発時はガスになる。うっとうしい。1P進んだところでガスのため知床台地の手前のコルへの下り口が分からずテントを張り一時待機としその後沈殿となる。レーションの時、食べ物の話に花が咲く。岬アタックは中止して知床岳アタック後下山となる。交信応答なし。
TS6:00⇒TS8:00
18日(土)ガス 沈殿
3:30起床。朝食後ガスが濃いので待機となる。ラジオによると道内の殆どが晴れているとのこと。札幌・函館は快晴。なぜここだけ変な天気なのだ?昨夜は余り寒くなく快適だった。でもテント内はだんだんうっとうしくなってきた。皆早く下山したいようだ。昼食のココアがとても美味しかった。昼過ぎ晴れ間が見え知床台地がよく見える。他のパーティを見たと先輩から聞く。20日に下山予定。明日は知床台地手前のコルまでだ。
19日(日)快晴 TS⇒知床岳アタック⇒カモイウンベ河口
久しぶりの快晴無風だ。TSより仏教大のスキーの跡を辿り小さいピークを2〜3ケ越えコルに着く。コル付近で赤旗をたくさん発見。コルに荷物をデポし2Pで知床岳。コルからは直ぐ急登。これを越えるとだだっ広い所をやや登り気味に進み、最後は長い登りが続いている。記念撮影後下山。遥か彼方に岬が見える。帰りはシリコも交えひたすら下る。暑い。コルまで直ぐに着いた。この台地でガスったら一歩も動けないだろう。コルでレーションの後、急斜面を、雪を落としながら下る。コル直下で雪洞の跡を発見。斜面が緩くなってきた所でスキーを付ける。2ヶ所急斜面がありズッこける。緩斜面では快適だ。特に最後のピッチは赤旗とトレースがあり快適そのもの。カモウンベ河口まで直ぐに着いた。目の前がTS。里は近い!遥か向うに観音岩が見える。夜、大エッセン大会で腹がパンクしそうになる。
TS5:50⇒ルシャのコル7:40⇒知床岳9:40⇒カモウンベ河口15:30
(回想) 知床岳頂上から彼方に知床岬が見えた。1日位で届きそうな距離に思えた。あの時、もう少し頑張れば、岬まで行けたかも知れない。これは今でも酒の席での話題になる。帰りは岬から太平洋側の海岸を辿ればどうだったか?
20日(月)曇り後晴れ TS⇒建根別⇒羅臼
いよいよ下山だ。TSよりスキーでトレースを辿り相泊まで行く。ここから除雪してある道路を1時間程行くとトラックと出会う。ここまで3ヶ所雪崩の跡があった。しかしこれが幸いにもトラックに乗せてもらうきっかけとなる。建根別まで冷たい風に文句を言いながらも「楽勝!」と言って喜んだ。ここから羅臼まではバスで向かう。ボロバスだ。長い合宿はついに終わった。春は近い!
TS7:30⇒相泊7:50⇒岬町9:15
*合宿終了後、のんびり道内を見て周り、自宅へ戻ったのは離阪1ヶ月後だった。
〔春山合宿を終えて〕
この合宿は今年1年を締めくくるつもりであったが登山口まで3日間を要し出鼻をくじかれた感じだった。「北海道は遠い!」と痛感した。そして初めてテントの外に出られない位の強風と顔面凍傷も経験した。知床半島は風との闘いだったとも言える。自分自身甘くみていたようだ、しかしこれは内地の山ではあじわえないものであり今後活かすようにしたい。最後に岬まで行けなかったのは残念であった。しかしもう二度と知床に行くことはないであろう。
20日(火)羅臼⇒弟子屈(駅沈)
21日(水)弟子屈⇒網走⇒札幌
22日(木)札幌⇒函館(夜行泊)
23日(金)函館⇒ヒュッテ *ヒュッテ:泉尾高校所有。白馬乗鞍スキー場にある
〜31日 帰宅
(回想)
登攀価値は低いが知床は面白かった。ザイルは一度も出さなかった。しんどいだけで緊張する場面はなかった。ただ、寒かった。3月の知床は厳冬期の北アルプスの稜線より寒いと思う。正に“氷の世界”。まあ、学生でなければ、なかなか知床には行けないし、この様な登山も楽しい。探検的である。絶えず海を眺めながらの登山はこれが初めてであった。こんなオホーツク海を見て山本曰く「流氷が氷河のようだ。ヒマラヤにいるみたい。」晴れれば最高のロケーションである。これ以後はこの様な登山はなく山岳部的な山登りになっていった。知床には機会があればまた訪れたい。夏に海岸沿いであれば可能であろう。ヒグマが怖いが。
山岳部1年目は、知床で終わった。しんどかったが楽しかった。この年は成功した合宿は皆無だったが、遭難しそうな事は少なかった。これ以後は、命拾いする山行が増えてくる。