(4年生時代)1980年4月〜1981年3月

メンバー
@ 7年:納富
A 6年:豆田
B 4年:今井 川野 山本
C 3年:大勝 西岡 青木(マネージャー)
D 2年:八木
E 1年:東 大内

(1年生の紹介)
・東(あずま):九州出身。背が高く野生児のような感じがした。岩登りは上手くセンスも良かった。また長身なので人工登攀でも有利であった。お姉さんは私と同じ年で某大学のワンゲルだった。山好きで顔もよく似ていた。酒は弱かった。

・大内:落語家のような感じで“小路?(しょうじ)”と呼んでいた。本名で呼ぶのは同期の東くらいであった。つまらないギャグが得意だった。これが結構受けた。残念なことに冬山の遭難騒ぎの後、山から遠ざかった。

◎4月8日(火) 岡本バットレス   八木
 八木とバットレスに行く。ノーマルルート2本と人工ルート1本。

◎4月10日(木) 岡本バットレス   甲南大山岳部
 大森さん・西岡・大勝・八木そして新人の大内の6人で行く。フリー2本。人工1本。

◎4月19〜20日 六甲ロックガーデン  甲南大山岳部
19日(土) 
ボッカのため雨ヶ峠を目指すが、新人の門山が始めて20分もしないうちに倒れ、風吹岩まで。その後、高座ノ滝の上にて幕営。

20日(日)
 月の墓場辺りでアイゼンワーク。例によって新人の門山は、全ての行動に対して出遅れ怒鳴った。今まで色々な人間を見てきたが彼ほどスローな者はいない。非常にアタマにきた。しかし、たたき上げると良い“山ヤ”になりそうだ。何といってもヤル気がありそうだから。
(回想)
 門山はこの直後に辞めてしまった。もう少し対応が違えば残っていたかも知れない。当時はまだ私も若かった。今ならこんな結果にはならなかっただろう。じっくり育てていたと思う。門山は、か細く色白であったと記憶している。

◎4月26日〜5月4日  五月合宿  穂高岳・岳沢定着  甲南大山岳部
                今井・山本・大勝・西岡・八木・東・大内・大森
26日(土)離阪
 ちくま5号にて離阪。松本さん、豆田さん、村岸さん、山本、青木、WVの連中の見送りを受け出発。京都では、京都女子大が乗り込んできた。ザックは4年生とは思えないほど大きく重い。

27日(日)曇り 入山  上高地⇒岳沢
 上高地までタクシー代1800円也。上高地は思っていたより人は少ない。林道から樹林帯の小道となり3Pで岳沢に着いた。ベースは明神側の樹林帯に設けた。テント設営後、直ぐ下の斜面で1時間ほど雪練。夕方より雪が舞い始め夜には激しくなった。岳沢周辺は予想に反して雪が少なく地肌がやけに目につく。本日、腹の調子が悪くサッパリワヤ。

28日(月)晴れ→曇り
 夕べは風雨が強かったが朝にはすっかり上がり雪練に出る。1年はしんどそうだ。

29日(火)快晴
 今井、西岡、八木が明神岳主稜へ。残りは雪練。この後、トカゲを楽しむ。昼前、山本が入山。本日、素晴らしい天気でよく焼けた。今日ぐらいからテントが増え始め近くには大阪市大もいる。明日、八木と奥穂高岳南稜に行く。
(回想)
 今年(2009年)の夏に明神岳主稜に登ろうと計画した。結局、私用で行けなかった。主稜はT峰からX峰まであり結構面白いらしい。来年は訪れたい。

30日(水)曇り→ガス+小雪  奥穂高岳南稜  八木
 八木と南稜へ。BCからデブリの滝沢を少し登り、凍った大滝を右に見て、南稜末端の尾根が二つに分かれている間のルンゼより右の稜を登る。雪田、ブッシュと登り更に急な雪田を10m登ると岩場が現れた。シュルンドで岩にハーケンを2本打ちビレー。1P目。凹角を5m程慎重に登りブッシュ帯へ。確保用のピンはどうしても抜けず1本残置した。この後ブッシュを約40m登り雪稜へ出た。これを少し辿ると末端の2本の稜が合流し、広いルンゼとなりアイゼンを効かして行く。約60m登り右の稜へトラバースして急なハイ松をゴボウで登り痩せたリッジに出た。この後、滝沢側がスッパリ切れた痩せた雪稜を少し辿るとトリコニーT峰の基部に着いた。主稜の右の雪田より急なルンゼに入る。ツァッケしか入らないのと丸腰なので緊張した。このルンゼを約40m登るとハイ松があり、そこでザイルを出す。八木トップでビレー点より3mトラバースして急な雪壁を5m直上し、目の前の岩の基部に到着。この岩を右から回り込み陰気なチムニー状ルンゼを7m直上する。この後、雪庇の下のトラバース。非常に難しかった。八木がよくやった。このピッチは、トップが不安定なところでザイルが一杯になり、セカンドの僕は雪庇の下までノービレーで登らねばならなかった。ここで後続の名古屋大学が追いついた。この後、雪稜とハイ松帯の踏み跡を約40mでトリコニーU峰の基部に着いた。ここでザイルを外しコンテで行く。U峰は岩稜で快適な岩登り(U〜V級)。ルートはアイゼンの傷が所々にあり、その通りに進む。U峰ピークでレーション。ここで名大に抜かれた。ピークから痩せた岩稜を少し降り、V峰とのコルに立つ。この辺り、非常に痩せている。V峰はU峰から見ると悪そうだが踏み跡があり全く問題なくピークへ(U級程度)。この後、5m程ナイフリッジを辿ると、やや広い尾根となり南稜の頭まで続いている。途中、幾つか岩場やピークがあるが踏み跡を外さなければ浮石もほとんどなく快適。レーションの時から天気が崩れ始め、南稜の頭直下よりガスとなる。吊尾根はトレースがバッチリ付いている。最低コルから重太郎新道へ向かったが前穂直下でトレースを見失い稜線へ登り返した。前穂からは、ルンゼをアイゼンを効かして降り、奥明神沢へ入りシリコも交えバテバテでBCへ戻った。BCでは、山本・西岡パーティがジャンダルム飛騨尾根で滑落していく3人を見たという。
・ BC5:50⇒末端6:15⇒トリコニーT峰10:30⇒南稜の頭12:45⇒
前穂高岳ピーク14:50⇒BC16:20
(回想)
 その昔、南稜を辿って、あの有名なウエストンが奥穂に登ったらしい。理由は、奥穂のピーク付近に直接突き上げているからであろう。ただ、今でも踏跡程度で道も判然とせず、夏に登る人はほとんどいないと思われる。我々が登った5月は結構シビアであった。多分、トリコニー直下でルートを誤ったためだろう。この数日後に登った今井は難しく感じなかったという。雪壁のトラバースは悪かった思いである。また、吊り尾根に出てからも夏道が雪壁と化しトラバースばかりで緊張した。ノーザイルで進んだが落ちたら止まらないので怖かった。この日は午後からガスで下まで見えなかったのが幸いした。前穂ピークからも、ガスで下降路が分からず、下から登ってくるパーティにルートを聞きながら降った。奥明神沢も上部は急でクライミングダウンも含めて慎重に降った。ジャンダルム飛騨尾根の事故は、「3人が滑落し大怪我をした。」と後で知った。生命に別状なし。山本の話では、ガチャガチャと登攀具が雪面に当たる音が聞こえたという。 

5月1日(木)ガス+小雪
 沈殿。昼前にラーメンを食べる。一日中、トランプを楽しんだ。

2日(金)快晴→曇り
 起床時はガスであったが、日が昇るにつれ快晴となる。しかし昨日からの雪が20cm積もり、雪崩の危険が大きいのでアタックは止める。1年生は雪練に出る。雪崩の危険が高いにもかかわらず周りのテントからは一斉にアタックに出て行った。昼前より畳岩からの雪崩が頻発。夕方、大阪市大の二人が来た。

3日(土)快晴  奥穂高畳岩尾根   八木
 八木と畳岩尾根アタック。コブ沢を少し登り出合より5分程の所で急な狭いルンゼ(幅5〜6m)に入る。これをアイゼンを効かして詰める。急でふくろはぎが痛い。ルンゼは間もなく広くなり左の尾根へトラバースする。ブッシュの痩せ尾根となりザイルを出す。1P目。40mこの尾根を辿る。2P目。広い急な雪稜となる。3P目。易しい雪稜。ここで後続パーティと合流。ザイルを解きハイ松の踏み跡を登り雪稜となる。しばらく行くと畳岩尾根の頭直下の岩場にかかる。2Pで抜けられるが部分的に悪い所もある。その後は頭までは易しい雪稜。頭からはトレースの付いた道を天狗のコルまで。コルでは大阪市大パーティと会った。コルからシリコでBCへ。昼からはトカゲを楽しむ。
・BC5:55⇒末端ルンゼ6:15⇒第T岩峰9:30⇒畳岩の頭10:40⇒BC12:05
(回想)
 天気も良く快適だった。1ヶ所、岩登りをした。思い出はこれくらいである。2006年夏に独り、西穂から奥穂へ縦走した。この時、久しぶりに畳岩や畳岩尾根を見た。凄い所だった。傾斜も強く脆そうで、今はもう登れないと感じた。

4日(日)快晴  下山
 快晴の下、2Pで上高地へ。上高地は人で一杯である。バスで八木と大内と3人で中ノ湯の露天風呂へ行く。100円也。Good!
(回想)
 昔から上高地は人が多かった。これは今も変わらない。人気スポットである。この時の中ノ湯の露天風呂は、安房トンネルの開通で今は存在しない。露天風呂の跡だけが残っている。残念である。中ノ湯は数百m上部(安房峠直下)に移転した。以前は風呂の入りながら対岸を走るクルマに手を振り楽しかった。入浴料も今は500円である。

◎5月10〜11日 岩湧山   泉尾高校山岳スキー部
10日(土)晴れ
 石田先生と中井。それに現役と、合わせて30人程で岩湧山に行く。久しぶりの岩湧山であり、高校時代が懐かしく思い出された。それにしても大パーティである。テント7張。夜、高畑先生のおごりのビールが旨かった。
(回想)
 これは高校山岳部の登山大会である。我校はいつも下位であった。何しろ山に関してはヤル気が無かった。スキーでは結構良い成績を残していたのだが・・・。この日は、山岳部の土日山行がなかったので参加したと思われる。まあ高校生の登山は緊張感が無くて良かった。楽しい。ここでの高畑先生・石田先生はクラブの顧問で中井は同期である。高畑先生・石田先生にはよく世話になった。残念ながら高畑先生は4年前に亡くなった。

11日(日)晴れ
 何しろ人数が多いので、全てに関して遅い。うだる様な暑さの中、日野に下り、選手と合流し河内長野から泉尾へ。

◎5月17〜18日  六甲ロックガーデン    甲南大山岳部
17日(土)曇り→晴れ
 今夜、新歓コンパ。それまで東と登りに行く。ゲートロック左1本。ゲートロック右3本。そしてホワイト2本。ゲートロックの右の高さ60〜70mの壁は、浮石が多く気味が悪い。

18日(日)晴れ
 充分に寝た後に八木と登りに行く。ゲートロック左1本。ホワイト1本。今日は人が多い。

◎6月1日(日)晴れ  蓬莱峡  甲南大山岳部
 東と小屏風2本。大屏風5本登る。

◎6月8日(日)にわか雨  蓬莱峡  泉尾高校山岳スキー部
 うっとうしい中、泉尾の1年の女子に岩登りを教えた。小屏風1本。大屏風2本。
(回想)
 高校の後輩と岩登りを楽しんだ。この年は入部者が多く、高体連が主催した岩登り教室では、1年生は定員オーバーで参加出来なかった。トップロープで岩登りを楽しんだ。泉尾高校の山岳スキー部出身で、大学山岳部もしくは社会人山岳会に入った者は私と二つ上の先輩だけであった。この先輩は、私が20歳頃に交通事故で亡くなった。よって、登山に詳しい者はいなかった。私は当時結構頼りにされていたと思う。

◎6月21〜22日  蓬莱峡  甲南大山岳部
21日(土)曇り→晴れ
 S字クラックを西岡と登る。夜は、AAVKのコンパ。

22日(日)晴れ
八木とジェードル、S字、正面などを登る。

◎7月21日〜8月日 夏山合宿 剣岳真砂沢出合定着 黒薙川柳又谷 
山本、大勝、西岡、八木、東、大内  甲南大山岳部
21日(月)離阪
 23:20発、立山5号にて離阪。たった一人で真砂までと思ったが、偶然にも大阪駅で神戸大の小林君と会い一緒に行く。
(回想)
 この年は授業の関係で入山を遅らせた。実のところ私は学業をおろそかにし、3年の終了時点で50単位近くも残していた。留年出来るような家庭環境ではなく正直焦っていた。夏もギリギリまで授業に出ていた。そんな理由で夏山の入山も遅れた。

22日(火)晴れ→曇り 入山
 室堂は毎年のことだが肌寒い。しかし快晴に気持ちを良くして、二人で真砂を目指す。雷鳥沢でもそうだったが剣沢に入って更に残雪の少なさに驚いた。真砂にはもう既にたくさんのテントが張ってある。大勝の話によると入山以来、雨が続いていたという。従って予定のアタックは余り消化していない。
(回想)
 神戸大の小林君と入山した。二人でゆっくりと真砂へ向かった記憶がある。神戸大とは恒例の冬のサッカー大会で交流があった。なお小林君とは同期である。

23日(水)曇り→雨 源治郎尾根主稜線⇒U峰iリンネ⇒別山尾根
 新人の大内と源治郎尾根に行く。BCより剣沢を登りT峰末端の2本の支稜に挟まれたガラガラのルンゼから取り付く。かなりの先行パーティがいる。10分位行くとルンゼは狭くなり、3mと5mの二段のチムニー滝にぶつかる。先行パーティは滝の右岸や左のリッジを登っていたが我々は滝を直登する。3mの滝は難なく越え、5mの滝にかかる。滝芯はチェックストーンのため悪そうである。しかし、この左にハーケンが5〜6本連打されていてA0で快適に登ると30mでテラスへ。この後、主にルンゼの右岸を登りうんざりする頃にT峰から延びている左の稜に出る。この痩せ尾根を忠実に辿るとT峰ピークである。所々に岩場(U級程度)が現れるが問題ない。T峰には2〜3のピークがあり主に長次郎谷側を行く。T・Uのコルへは急なリッジの降り。そしてU峰へはこれまた急な登り。やっとこさ登り切りU峰のピークへ。小さいコブを2〜3個越えると30mの懸垂下降となり時間待ち40分。ここは風が強く寒い。弁当を食べ、太い鎖を支点に下降しiリンネに向かう。コルからU峰平蔵谷側フェースの基部をトラバースするのだが、去年は雪渓が残っており、いささか緊張したが今年は全く問題ない草付である。約20分でBフェースカンテルートの取付に到着。去年も来たが、ここには2本の残置ピンがある。1P目、僕がトップで草付の踏跡より右へ5mトラバースしてリンネに入る。リンネ内は浮石がやけに多く汚い。リンネを約20mでテラス。2P目。突っ張りで30m登り、その後、左の濡れた壁を5m。3P目。ハイ松のブッシュを15mで稜線へ出る。このルートはリンネの底が浮石や枯れ木で汚いが岩は全体的にしっかりしており快適。ただ少し暗い。別に取り立てて問題とする所もない。この後、再び懸垂でコルに降りガラガラの尾根を本峰まで頑張る。ガスのため視界50m。黙祷後、直ちに別山尾根経由でBCへ。一服剣の辺りで雷を伴った大雨となり全身びしょ濡れ。夜、大雨の音と寒さのためによく眠れず。大タテガビン沢隊が非常に心配である。
・取付6:40⇒T峰9:40⇒iリンネ取付13:50⇒剱岳本峰15:30
(回想)
 iリンネは落ち葉や泥で汚かった。問題なし。おそらく登攀者はほとんどゼロであろう。確保用にアングルピトンを1本残置した。今でも残っているだろうか?

24日(木)曇り時々雨  
 沈殿。一日中、テント内でゴロゴロ。大タテ隊帰幕せず。

25日(金)晴れ→にわか雨  八ツ峰Y峰Cフェース剣稜会ルート
 大タテ隊のサポートのため大勝と二人で内蔵助平まで行く。ここで全身びしょ濡れの二人に会う。かなりシビアだったようだ。BCに戻り直ぐに大内とY峰Cフェースへ向かう。とてもしんどい。時間待ちがあり3時間かかった。登攀中、長次郎谷をスノーボートでケガ人を降ろすのを見た(後にこれは高崎経大の方だと知った)。長次郎谷はV峰直下の滝(5m)が出ていて、やけにガラ場が目に付く。今までにないことだ。
・取付12:50⇒終了16:15
(回想)
この夏は天候不順で雪も少なかった。こんな年は浮石も多く事故が多発する。この数日後、当部でも大内が怪我をした。

26日(土)晴れ→曇り
 沈殿。僕以外は長次郎谷へ雪練。夕方、大阪歯科大の方が遊びに来た。また、京大からヒゲパンをもらう。
(回想)
 ヒゲパンは京大が自分たちで作り昼食に使っていた。当部の昼食は、ビスケット・チョコレート・チーズ・飴・ピーナッツ・マヨネーズを小分けしたビニール袋に入れたものを使っていた。マヨネーズはビスケットに塗って食べた。ヒゲパンはカステラを圧縮し硬くしたようなもので、パンに飢えていたので非常に美味しかった。そこで、我々も積雪期の昼食に用いた。好評であった。ただし少し固かった。

27日(日)晴れ→にわか雨
 沈殿。神戸商大に食料を戴く。彼らは入山2日目に事故を起こし今日下山するそうだ。何と3日目にして。
(回想)
 この頃は大学山岳部が活発であった。以後、衰退するのだが。色々な大学名が出てくる。真砂沢もたくさんのテントがあった。今はどうだろうか?かなり少ないと思われる。その代わりに静かな山登りが出来そうだ。当時はこの時期、時間待ちが当たり前であった。人気ルートはどこも混んでいた。時間待ちが長くて敗退する事もあった。

28日(月)晴れ→にわか雨  チンネ左稜線下部T5〜aバンド〜bクラック  東
 東とチンネ左稜線に行く。三ノ窓谷上部の狭い所は雪渓が落ちそうなので三ノ窓尾根より巻く。取付では時間待ち。ここから見えるだけで東工大・千葉大・関西山岳会等がいる。1P目凹角を登るが難しい。20m。2P目クラックを20mでテラス。3P目フェースを20mで広いテラス。4P目脆いルンゼ状を20mでリッジへ。5P目フェース10mで易しいリッジへ。この後、コンテで約60m。6P目凹角よりフェースを40m。易しい。7P目広いリッジを40mでテラス。8P目リッジのピナクルを巻くと30mでT5へ。ここで時間待ち。この間に雨が降り始めたため中央バンドへ10mの懸垂で降り、aバンド〜bクラックへ向かう。この時土砂降り。嫌になる。直ぐ前には日大がいる。gチムニーでは西岡と会う。八木は声だけが聞こえる。また、僕らの直ぐ後には単独の人がノーザイルで続いている。この人はgcdに行きdクラックで手こずっていた。aバンドを快適に登りbクラックでは危ない思いもしたが快適にピークへ。チンネの頭よりBCへはビショ濡れで戻った。
・ チンネ取付9:00⇒登攀開始9:40⇒T5から中央バンドへ下降13:00
⇒終了15:25
(回想)
 1年生の東と登った。1年生と左稜線を登る事には反対意見もあったが、東には“大化け”してもらいたかったので無視した。条件として私がオールトップで登るとした。この時、左稜線は完登していない。核心部のT5手前で降雨のため中央バンドへ逃げている。初登者はここをノーピンのフリーで登ったと聞いた。現在はフリーで登られるらしいが、当時はA0かA1で登っていた。このルートは、一度は登っておきたかった。それから、aバンドで出会った単独者は今で言うフリーソロであった。確かザイルは付けていなかった。私がこのソロクライマーを評価したいのは、チンネの下半部を丸腰で登った点だ。私は、チンネは中央バンドまでの下半部の方が上半部より難しいと思う。下半部は傾斜もあり、易しいと言われている中央チムニーも濡れていて悪い。一方、上半部は岩がしっかりして易しい。

29日(火)曇り時々雨
 
29日(土)晴れ沈殿。朝から天気が悪く沈。大勝は雨の中、三ノ窓へ。夕方、西岡が戻る。本日、関学が撤収コンパ。明日、東・大内と東大谷中尾根へ向かう。

30日(水)霧雨
 沈殿。雨の中、関学が下山。昼過ぎに山本が入山。大勝・八木が戻る。

31日(木)雨
 沈殿。夕べから物凄い雨。富山には大雨洪水注意報。朝からエッセン大会。

8月1日(金)曇り  丸山東壁1ルンゼ  山本
 山本と丸山東壁1ルンゼへ行く。暑い中、ハシゴ谷乗越を越え内蔵ノ助平へ。ここで国学院大学と会う。内蔵ノ助平はやけにカエルの多い所だ。上部には大洞窟が見える。1ルンゼ押し出しを詰める。途中、小さい滝が幾つも現れるが快適に登り、南東壁の登研ルートの取付まで登る。ここで登攀具を付け、登研ルートの2本の錆びたボルトのある直下から、外傾した枯葉の多いスラブを10mトラバースして1ルンゼ本流に入る。直ぐにF1が現れ、ノーザイルで滝芯を3m登りバンドを左へ5mトラバースするとF1とF2の間のテラスに到着。続いてF2(15m)。最初、直登しようと考えたが水も流れて悪そうだったので、10mテラスを左上しF2落口へ右上するバンドをノーザイルで登る。15m。F3は直登。滝芯を登るのだが濡れているにもかかわらず非常に快適。この上でルンゼは左右に分かれる。左ルンゼは真っ黒でコケが生え非常に悪そうだ。我々は右ルンゼを行く。ここでザイルを付け1P目山本トップでズルズルの草付ルンゼを15m登り残置ピンでビレー。2P目草付より岩溝を40mでボルトのあるテラスへ。このピッチ、所々浮石が多く悪い。それに濡れている。この頃よりポツリと雨が降り出す。あと2P弱で登攀終了だが、ここで引き返す。大洞窟から20m下だ。この後、残置ボルトを使って40m・20m・30mと懸垂しF1下に到着。下降中、同ルンゼを登る単独の人と会う。この人はF2で3mスリップし下降して行った。レーションの後、来た道をBCへ戻る。内蔵ノ助平で交信中(15:00)、本峰北壁で大内が怪我をしたと聞く。18:00に帰幕したが、直ぐその足で剣沢まで山本と食料・寝具を運び上げる。剣沢着21:30。意外と大内は元気そうで安心した。ここでラーメンを食べBCには23:15に戻る。
・BC6:30⇒登攀開始10:30⇒終了12:00⇒BC18:10
(回想)
 1ルンゼの岩はしっかりしていて登り易かったが、残置ピンがほとんど無く怖かった。数十m位はランナウトした。落ちると終わりである。それにしても丸山東壁は大きかった。傾斜も強くハングも大きく張り出していた。圧倒された。また所々ボルトが見え凄い所にルートが延びていた。大内の怪我には参った。バテバテでBCへ戻り剣沢に上がった。大内は大したことがなくて良かったが、剣沢からBCへ戻る道のりが辛かった。この日は朝の5時からの行動で、BCへ戻ったのは23時頃だった。下りでも足が前に出なかった。フラフラでBCへ戻った。

2日(土)晴れ  下山
 昨夜の疲れと睡眠不足のため非常にしんどい。御前を越え、室堂には夕方17:00に到着。ここには今井・大勝・大内がいた。デポを回収し、いよいよ分散合宿が始まる。室堂は晴れていたが富山は小雨で、高原バスでは雲海が美しかった。

3日(日)曇り→にわか雨  黒薙川柳又谷
 富山で不要品を送り返し宇奈月へ向かう。宇奈月から黒部峡谷鉄道で黒薙へ。ここより軌道を歩き更に林道を行く。この後、冬用のトンネルを幾つも抜け二又へ。水測所へ行くと水量は昨年の3倍とのこと。また、水は最近減っていないようだ。偵察に出るが2年前は難なくへつれた所も今は全く手が出ない。また渡しのカゴもロックしてあり使用不能。渡渉は論外。夕方、岩魚釣に出掛け1時間で5匹も釣り上げた。中でも山本は30cmの大物を。僕は10cmを3匹。西岡は1匹。18時頃より雨がポツリと降り始め、本日、二又より少し引き返し、トンネル内の乾いた所を選んでビバーク。トンネル内は涼しいというより寒いくらいだ。夜、岩魚を食べる。
・黒薙駅12:55⇒二又14:45
(回想)
 この年は雨が多く水量も多かった。78年ぶりの冷夏。水量に圧倒されビビッた。今振り返ると、この2年前の夏は好条件だったと思われる。あの時は台風の接近で敗退したが、結局、台風は来なかった。2年前に登れば良かった。結果論ではあるが・・・。柳又は水との闘いである。寒いが秋が良いと思う。何年か前に、テレビで柳又の遡行をやっていた。対岸に渡るのに、まず投げ縄方式でザイルをセットしたりして、我々の知らない技をたくさん使っていた。感心した。

4日(土)曇り時々雨
 昨日来た道をとぼとぼと戻る。黒薙温泉では全員露天風呂へ。もうこの道を通ることは二度とないだろう。
(回想)
 この6年後に、嫁ハンと黒薙温泉を訪れた。1泊し、露天風呂に浸かりのんびりした。静かで良い所だ。秋に訪れたので紅葉も素晴らしかった。トロッコ電車も登山で乗るときは緊張感からか景色など余り気にしないが、観光で行くとノンビリ楽しめた。

◎8月15〜16日 比良山系 大谷川中谷右俣遡行〜安曇川白滝谷下降
〜安曇川八幡谷遡行〜比良川神爾谷下降  単独
15日(金)晴れ  大谷川中谷右俣遡行〜安曇川白滝谷下降
 久しぶりの比良である。志賀駅より国道161号をしばらく歩き荒川へ。そこから右に折れ林道に入る。蒸し暑くアブがうるさい。林道を行くと、やがて大谷川へ下りる道があり、それを辿るがこれが失敗で次々に堰堤が現れ、結局ブッシュ漕ぎで先の林道へ上がる。シャツは汗でビショ濡れ。手はバラで傷付いた。また、タオルを忘れうんざり。再び林道を終点まで辿り、最後の40m位の大きな堰堤を越えると広い川原となり二俣に着いた。右俣に入るが左俣はガラ谷という感じだ。しばらくは平凡な谷が続くが次第に小滝が連なり始める。快適に越えると5mと水流が二条の10mに出合う。10m滝の直下まで行くが直登は無理なので少し戻り右より巻く。この上で谷は左右に分かれ左に進む。滝を真っ直ぐに登り小滝を次々に越えると谷も狭くなっている。急なルンゼを行くと、いつしか水も途絶えガレ場となる。ブッシュを掴んで慎重に登り、ブッシュ帯に入り僅かで縦走路へ。昼食の後、木戸峠より琵琶湖バレーを過ぎ白滝谷へ降りる。この辺はテントが乱立していて賑やかだ。よく整備された道を坊村へ。途中何匹もヘビを見る。坊村からは14:24発の細川行で細川へ向かう。このバスはボンネット式の超ボロバスで180円也。細川の商店でタオルとビールを買い、八幡谷を少し入った所でビバーク。夕方、ポツリと雨が降ってきたが直ぐに止んだ。
・ 志賀駅7:50⇒二俣9:50⇒二段10m滝上10:30⇒縦走路11:10⇒坊村14:05
(回想)
 中谷は、最初の滝を越えると、後は谷でなくてルンゼだったような気がする。スケールも小さかった。

16日(土)曇り時々晴れ  八幡谷右俣遡行〜比良川神爾谷下降
 曇り空の下、谷を遡る。クモの巣が多く嫌になる。出合付近は伏流に近く水量は少ないが、少し登ると増えてくる。間もなく小滝が連なり始め、快適に全て直登。右から大きい枝谷を見て第1ゴルジュに入る。これは全て直登。第2ゴルジュの出口の8mの滝にはヘビがいて直登を妨げたが、ヘビの直ぐ上を左上して突破。この後、シャワークライムで二俣へ出た。この直ぐ上部が第3ゴルジュだ。入口の6m滝は右のリッジを快適に登り滝頭へ。続く三段8mは滝芯左の幅10cmのヌルヌルのクラックを慎重に登る。この後も全ての滝を直登し第4ゴルジュに向かう。これも全て直登出来た。ここまで、やたらとカエルとヘビが多く、からかってやった。第4ゴルジュの後、谷は狭いルンゼ状となり汚くなる。少し登ると、左からヌルヌルの滝を落とし二つに分かれる。左の滝が本谷である。この滝は滝芯の左を登るのだが、最初の数mが悪く腕力を使う。この後、快適に登ると最後の5mと4mの滝は左よりズルズルの草付を巻く。更にガラ場の狭いルンゼを詰めるとガレに出て踏跡よりブッシュに突っ込み、奮闘してやっとこさ縦走路へ。昼食後、武奈ヶ岳を経て北比良峠へ。ここよりガレ場を駆け下り神爾谷へ下る。登山道を忠実に辿るとイン谷へ。更に暑い中、国鉄比良駅へ。本日、高知商が箕島高に破れ、澤田君残念!!!
・ BS6:00⇒70mガレ下7:00⇒二俣8:45⇒縦走路9:40⇒比良駅13:10
(付)中谷右俣は期待して行く所ではない。湖西線から眺めると凄いカラ谷に見えるのだが。谷は六甲の西山谷に似ている。白滝谷は直ぐ傍に登山道が付いていて面白くない。夫婦の滝はかなり大きい。谷の感じは奥ノ深谷/口ノ深谷に似ている。八幡谷は、貫井谷より少し広いが滝が連続し面白い。それに入谷者が少ないのかゴミも少なく気持ちが良い。神爾谷も登山道が直ぐ近くに付いていて面白くない。比良の谷の全てに言えることだが、ガマガエルがやけに多く、それにヘビも多い。爬虫類が苦手の僕にとって、それだけがいただけない。
(回想)
 八幡谷のことは、全く記憶にない。比良山の西面の沢はよく通っていた。遡行距離は短いが滝が連なり面白かった。また機会があれば訪れたい。澤田君とは、幼稚園からの友人の弟である。年は私より五歳下である。彼は、高知商で阪神タイガースに入った投手の中西と同級生である。打順は中西が4番で、彼は5番だった。プロにはなれずに大商大からナショナルに入った。

◎9月13〜14日 土日山行  蓬莱峡  甲南大学山岳部
13日(土)晴れ
 大勝のクルマで危ない目に遭い、そして、道に迷いながらやっとこさ蓬莱峡へ。大勝と東と3人パーティで正面クラック等を登る。最後はX級フェースをトップロープで登る。シビア!
(回想)
 大勝が車を買ってもらった。スターレットだったと思う。運転初心者のクルマに定員一杯の人と荷物を載せての山道ドライブ。結構危なかった。でも楽チンであった。

14日(日)晴れ
 良い天気だ。川では小さい子が水遊びをしている。東とそこら辺を10本程登る。帰りは、またしても危ない目に遭いクルマで学校へ。

◎10月26日(日) 六甲ロックガーデン  甲南大学山岳部
 八木・東と三人でロックガーデンに行く。昨夜の月見コンパの名残が部室には残っている。

◎11月スキー雪練・荷揚げ合宿 立山雷鳥沢定着  甲南大学山岳部
                 大勝・青木・東・大内
6日(木)
 平井さん夫婦だけの非常に淋しい見送りの中23:20発、立山5号で離阪。今回は久しぶりに青木も参加。

7日(金)晴れ  室堂⇒雷鳥平BS
 夏山シーズン中には、大阪から立山駅への直通便があるのだが、今は無く富山で乗り換える。どういう訳か昨夜は良く眠れなかった。立山からはケーブルが工事中のため代行バスで美女平へ。立山では例によって計量があり改めてザックの重さに驚いた。この辺りにはもう既に少し雪がある。ここで300円のそばを食べ室堂へ。室堂では、積雪が平均で1,5m。多い所で2,0mあり、やはり、この冬は雪が多い。雷鳥平までは重荷に苦しみながら1時間半程で到着。雷鳥荘前からは雪が深くワカンを履いた。東はワカンが初めてで珍しいのか、はしゃいでいた。テントは2年前とほぼ同じ所に設営。昼からは皆でスキーをやる。なかなか上手い。夕方、偵察隊と交信が取れ室堂乗越にいるとのこと。取付からずーっとラッセルで非常に参っているようだ。今井の話によると奥大日岳直下は非常に悪いそうだ。明日はデポを兼ね雄山アタック。夜は星が降ってきそうなほど美しい。

8日(土)霧+にわか雪
 昨夜からミゾレや小雪が舞い散り20cm位積もった。荷揚げの予定であるが沈となる。昼まで朝寝を楽しみレーションの後スキーに出掛ける。今日はシールを着け登下降の後、シールを外し、靴を固定して滑降。全員なかなか上手い。明日天気が良ければデポと雄山アタック。ラッセル隊は剣岳アタック。
(回想)
 今井たちのことを、連日ラッセルばかりだったので“ラッセル隊”と呼んだ。この時は茶化してふざけていたが、この1ヶ月後には、猛烈なラッセルに入山から下山まで苦しめられることになるのだった。

9日(日)曇り
 早朝は晴れていたが、出発後直ぐにガスがかかり1P行った所でデポして戻る。昨日スキー中に1mの段差から落ち足首を捻挫した。これが少し痛む。昼からスキー。主に滑降の練習。剣岳隊は御前よりバック。
(回想)
 ここはスキー場と違い、危険箇所には旗などの標識はない。注意が必要だ。この日は曇り空で前がよく見えなかった。

10日(月)晴れ→快晴  BC⇒御前デポ⇒雄山(立山三山巡り)
 空には少し雲があるが、全員でデポ(御前小屋)と雄山アタックに出る。1Pで昨日のデポ地に到着し回収。そこより1P強で御前へ。上部はルンゼを登らずに広い尾根を進んだが、そこまではほぼ夏道通り。途中、本峰アタック隊の西岡・八木がチラッと見えた。デポは便所の屋根の上にくくり付けた。小屋ごと持っていかれない限り大丈夫だろう。この間40分位かかり全員の足の指先の感覚がなくなった。交信後、直ぐに雄山へ向かう。風が強く目出帽+高所帽+フードで行く。別山からの下降が少し悪いぐらいで技術的に問題ない。心配していたほどのクラストでもなく夏道通り進んだ。ただ、風と真砂岳と富士ノ折立への登りが堪えた。雄山からは快晴の下360°の大パノラマ。温度計を東が見つけ―9℃を示してした。しかし寒さは感じない。下降は一ノ越経由を取る。一ノ越からはシリコも交えBCへ駆け下る。今日は御前から雄山まで風に悩まされたが、その後は風も無くなりまるで5月のようであり快適。本峰隊も無事ピークに届いた。
・BC5:50⇒御前小屋9:15⇒富士ノ折立11:30⇒雄山12:50⇒一ノ越13:20
 ⇒BC15:20
(回想)
 立山三山巡りは手軽なルートだ。これまでに何回か訪れた。ただし遮るものが何も無いので風はきつい。防風対策は万全でないといけない。

11日(火)快晴
 夜明けには少し雲があったが、その後、雲ひとつ無い素晴らしい天気となった。全員スキーを着け一ノ越へ向かい直下より尾根伝いに滑降。これを2回行った。ポカポカ陽気で5月のような天気の下、日向ぼっこを楽しみ昼からは雪練。僕は、直ぐ横で物凄いスピードで滑降するスキーヤーを見物。上手い!12:00の天気図を見ると帯状高気圧となり明日も快晴のようだ。夜、天の川が非常に美しく大内と星を眺めた。

12日(水)快晴  奥大日岳⇒下山
 雲ひとつない快晴の夜明けだ。抜けるような青空の下、スキーを着け室堂乗越へ向かう。最初はコルまでスキーの予定だったが凍っていて直下にデポしアイゼンで行く。コル直下が少し傾斜が強かった。コルには偵察隊の幕営跡があった。ここより雪稜で小さいコブを2〜3個越え奥大日岳へ向かう。雪庇はまだ発達していないようであったが、用心してブッシュ伝いに進んだ。最後の広い斜面を登ると赤旗の1本立つピークに出る。これは偵察隊が立てたものだ。ピークから大勝と奥大日尾根を少し降りてみるが雪崩れそうで嫌な所だった。冬には状態が良くないと登れないだろう。今井が言うのもうなずける。記念写真と黙祷後、往路をシリコも交え駆け下りBCへ戻る。直ぐにレーションを取り撤収し下山。この3日間よく晴れた。少し惜しい気もするが下山。明日からは天気も崩れるだろう。富山からは18:20発の雷鳥号で帰阪。
・BC6:15⇒室堂乗越7:40⇒奥大日岳ピーク9:35⇒BC11:10

◎11月29〜30日 土日山行  六甲ロックガーデン  甲南大学山岳部

 部室からポケポケ歩いてロックガーデンに行く。ブラックロックの下にテントを張りその辺をブラブラと歩き回った。

30日(日)晴れ
 昨夜は寒くて参った。“月の墓場”を彷徨い、A懸垂岩で少し岩登り。昼食後は地獄谷を下りゲートロックで岩登り。

◎冬山合宿  奥大日岳⇔剣岳                  甲南大学山岳部
                     今井・大勝・西岡・八木・東・大内
(はじめに)
 この冬は奥大日岳より剣岳に行く。ここは世界有数の豪雪地帯であり、また一晩でテントが埋まる事も珍しくない。馬場島からの奥大日尾根では下部では猛烈なラッセル。中間部は巨大な雪庇。そして奥大日岳直下の雪壁と変化に富んでいる。そして最後の別山尾根も技術的には興味がある。以上から魅力あると言いたいのだが本音はそうではない。私は今時、準極地法で攻め登るという形式が嫌なのだ。やはり、いじいじした登り方でなく、ラッシュで行くべきだと思う。極地法は今やヒマラヤでも行われていない。山域ももっと変わった所へ行きたい。別山尾根は何回も登ったし剣岳ピークにも冬には1回立った。そして我が部も過去に何度も同じ方法で登っている。実を言うとこの冬は西穂から槍に行きたかった。しかし、今のリーダー会は交代した時からこの計画を言い続けているので仕方がない。自分も交代時に御前から源治郎尾根アタックを考えていたが、部のヤル気と実力不足から不可能と判った。ただ、山本がこの合宿に参加するのなら出来ない事はないと思うが・・・。この冬は多量の雪が降るようだ。ここは入山者も少ない。想像も出来ないくらい辛いだろう。今の1・2・3年生は豪雪を知らない。そういった意味でも気合を入れ臨まなくてはならない。特にリーダー会の考えは非常に甘いようだから。12/10記

16日(火)
 23:20発、立山5号で離阪。井上さん、松下さん、中辻さん、薮内さん、山本、青木、関学の帽田君、樋上君、WVの連中の見送りをうけた。山ではもう既に雪が相当降っているようだ。冬山の出発は4年になっても気が重い。そして荷物も・・・。

17日(水)曇り時々晴れ  伊折⇒馬場島⇒東小糸谷出合
 富山で乗り換え上市へ向かう。ここには明治大がいた。彼らは赤岩尾根と早月尾根へ行くという。上市からはタクシーで伊折へ。いよいよ冬山が始まる。今年は雪が多く富山でも10cm位積もっていた。伊折では50cm位。中村さん宅でサントリーレッド(ウイスキー)の小瓶を買った。道には昨日入山した東洋大のトレースが残っている。所々、ゴボッともぐるが4Pで馬場島へ到着。積雪約1,5m。トレーニング不足のためか非常にしんどい。レーションと県警への挨拶。福永さんの碑への黙祷のあとワッパを着け東小糸谷へ向かった。県警の方は「今年は特に雪が多いので気を付けるように。」とアドバイスされた。馬場島から1Pで出合。立山川の川原にテントを張る。明日からのラッセルを考えると非常に気が重くなる。
(回想)
 しんどい入山だった。荷物も重かった。40kg以上担いでいた。余りの荷物の重さに文句を言ったら、2・3年生のザックは、更に重かった。八木は50kg以上だったかも知れない。この日、県警の方に会ったのが最後で、これ以後下山まで人に出会うことはなかった。今井は下山中にカモシカと鉢合わせになったらしいが・・・。この翌年の夏に家族で馬場島を訪れた。両親の願いだった。ちょうどテントを張った辺りで、砂に埋もれた冬山の計画書を見つけた。もし、遭難していたら遺品になったであろう。誰が捨てたのか分からないが・・・。

18日(木)曇り→雪  東小糸谷出合⇒中山のコル⇔1300m地点デポ
 起床時は星が見えていたが撤収時は曇り。出合より全装備を担いで出発。昨日同様にザックは非常に重く肩に喰い込みしんどい。東小糸谷を遡るが、この谷は狭いが、両側の山は低く樹木も多く茂っているので雪崩の心配も少ない。また、水もチョロチョロと流れている。出合より膝程度のラッセルが続く。スピードは重荷のため非常に遅い。しかし昼頃には中山のコルに着いた。テントを張りレーションの後、一斗缶やガソリンなどの荷揚げを行った。荷は軽くなったが急登となり、ゆっくりしたペースで1300m地点にデポし、更にその上の急斜面に40mフィックスした。この登り急で古い残置フィックスもある。それから、コルからの尾根は急でかつ痩せていてブッシュも多くラッセルも深くて嫌な所だ。テントに戻る頃より雪が降り始めた。この雪はかなり積もりそうだ。入山以来、風邪気味であったが、どうやら治ったらしい。
(回想)
 この日より毎日猛烈なラッセルが続いた。嫌になった。一気に行けるほど甘くはなく、ダブルボッカで進んだ。

19日(金)雪  中山のコル⇔1625m台地⇔1300mデポ回収
 昨日からの雪が30cm位積もりテントも少し埋まった。もちろんトレースは全く残っていない。しかし荷は軽くなった。コルより昨日とほぼ同じルートをとりラッセルに精を出す。膝から胸位まで沈みなかなか進まない。デポ地を過ぎフィックスをゴボウで登る。ここからは少し傾斜が落ちるが間もなく再び急登となる。尾根は比較的痩せていて胸位のラッセル。嫌になる頃、やっとこさ1625m台地に着いた。今日はここにテントを張る。この辺は広い尾根であり、11月に偵察隊がテントを張った所だ。雪が依然として降り続いているが、僕以外の全員でデポを1300m地点まで取りに行った。気圧配置は冬型。
(回想)
 ラッセルは、腰から胸までの深さだった。先頭は、50歩を目安に交代した。しかし、たまにズボッとはまり脱出に苦労した。大勝は体重が重くそれの回数が多く、今井から「三歩ラッセルや!直ぐに代わるな。」と言われていた。スピードは超スローペースで遅々として進まない。先頭は汗だくで必死だが、後続は待ち時間が長く、寒くて仕方なかった。 

20日(土)曇り→雪  1625m⇔クズバ山の先へデポ
 空は曇りだが富山平野はよくみえる。しかし早月尾根1800mより上部はガスっていて見えない。今日の予定はクズバ山まで荷揚げ。TSからいきなり腰位のラッセルで、時々胸までもぐる。立山川側には所々キノコ雪のような雪庇が見られ、ブッシュとの境界を、気を使いながら進む。緩い登りの痩せ尾根が続き、技術的には全く問題ないがクズバ山ピーク直下の傾斜が少しきつい。僅か30mだが残置フィックスもある。荷物はクズバ山から左へ折れる小さなコルに置いた。ここには大きな杉の木が数本あり良い目印になる。デポの後、直ぐにバックしたが、この頃より風雪となり往路のトレースはきれいに消えた。帰りもラッセルでうんざり。ただ降りなのが救いだ。TS(1625m)から上部で少し迷った。しかし昼過ぎにはTSに戻りレーションの後、トランプを楽しんだ。ラジオの天気予報では今夜30〜50cmの積雪を予想している。トランプの最中もみるみるうちに雪が積もる。アーア。この冬はやはり雪が多い。残置してある赤布が全て雪に埋まりかけているのだから・・・。
(回想)
 この尾根は赤布が目に付いた。入山時は全て我々より数m上の枝に付けてあったが、下山時は全く見当たらなかった。入山時は積雪が2m程であったが、下山時は5m位積もっていたのかも知れない。流石、五六豪雪。

21日(日)晴れ→曇り  TS⇒1885mピークと西大谷山の間のコル⇔デポ回収
 昨日の雪は止み今朝は予想と異なり晴れである。しかし昨日のトレースは殆ど消えた。今日もいつも通りにラッセルに精を出す。TSからクズバ山直下のデポ地までは昨日より雪庇が発達している。デポは完全に埋まっている。これを見送り進んだが、相変わらず腰から首までもぐるラッセルが続き超スローペース。デポ地より1885mピークまで小ピークが幾つも連続し、また大木の針葉樹が生い茂っているために、雪庇とキノコ雪がやたらと入り組み悪い。それから雪庇との境のギリギリを進むので恐ろしい。1885mピークより左へ直角に折れ、本日、西大谷山と1885mピークとの間のコル。通称“乙女の森”で幕営。テント設営後、僕と今井以外はデポを回収のために降る。なんと1時間30分で戻って来た。行きに3時間半もかかったのに。今日は昼過ぎまで良い天気で風もなく快適であった。明日は一気にプラトーへ。

22日(月)曇り→晴れ  TS⇔プラトー(デポ)
 昨夜は非常に寒く何度も目を覚ました。今日の予定ではプラトーまでデポ。僕と今井以外は皆出て行った。昼寝を楽しむ。9:00の天気図では朝鮮半島に移動性高気圧が二つあり、その直ぐ後ろに発達中の低気圧が続いている。今日は昼前から晴れたが、多分、明後日から崩れるだろう。明日いよいよBCを設営。夜、月と富山の夜景が美しかった。
(回想)
 私と今井は4年生だったので、荷揚げが少ない時は沈殿していた。4年生の特権である。

23日(火)快晴→雪  TS⇒プラトー先端BC⇔デポ回収
 昨夜もグンと冷え込んだ。空は快晴で月も残っている。TSより昨日のトレースを辿ってプラトーを目指す。しばらく進むと尾根は右へ折れ、その後、痩せ尾根となる。この辺り雪庇とブッシュの境界ギリギリにルートを取ってある。この間、快晴の下、剣岳が素晴らしい。広い西大谷山を過ぎ、やや広い尾根を行くとデポ地に到着。ここまで驚くほど早い。デポ地からは奥大日岳が目の前に迫り、ピークから延びる尾根と稜線の雪庇がよく見え、思ったほど難しく見えない。しかしラッセルにしごかれそうだ。この後のプラトーの横断は腰のラッセルで、ようやくJPに着いた。やっとこさBC予定地。ここまで7日間かかったわけだ。BC設営後、僕と今井以外はデポを取りに行った。プラトーはだだっ広くラッセルも深い。昼からは快晴だった天気も崩れ始め雪が降ってきた。
(回想)
 BCまで7日間かかった。計画通りだったと思うが、計画自体が相当な余裕を含んでいるので事前の予想よりは2〜3日遅れていた。今振り返ると、この時点で撤退を考えるべきあっただろう。ところが当時の我々は、撤退など全く考えずに劔のテッペンに登ることしか考えていなかった。年内の下山がなくなったとか、この後には、晴天が続き合宿は成功するぐらいにしか思っていなかった。また、稜線に出れば、雪も風で吹っ飛びラッセルもなくなると楽観的であった。復路も後続のパーティのトレースを使い1日で馬場島まで帰れると甘い考えであった。しかし、現実は稜線でも猛烈なラッセル。後続のパーティは馬場島までで尾根に取り付きもしないで帰っていたのだった。

24日(水) 風雪  沈殿
 クリスマスイブは風雪で明けた。テントの周りには30cm位の雪が積もった。本日沈殿。現在、日本上空には二つ玉低気圧がいる。東北では大雪だとラジオが告げている。テントラッセルも3回やった。3回目に僕も加わったが胸位もぐる。帰りのラッセルを考えると気が重くなる。差し入れのワインは凍っている。アーア。テントの中では、とんかつ・焼き鳥・ラーメン・酒 等の話に華が咲く。皆腹が減って早く下山したいようだ。特に1年生は・・・。
(回想)
 連日の重労働の割には粗末な食事。腹が減った。沈殿の日は食べ物の話ばかりであった。

25日(木)霧→快晴  BC⇒剣御前小屋AC  西岡・八木
 昨夜の雪がテントの1/3位まで積もり全員でテントラッセル。1時間半位かかった。7時前に朝食を摂り、ふと外を見ると青空が出ている。迷ったが剣岳アタックに出る。全員で出発。BCよりブレーカブルクラストが続き腰位までもぐる。しかしこの後、尾根に出るとラッセルも比較的浅くなり楽になる。雪庇は立山川側に僅かに出ている。1P位進むと傾斜が増し、更にワッパを外しアイゼンだけとなる。そして最後の急な雪壁を100m位登ると奥大日岳のピークに出る。この辺には古いフィックスがたくさんある。心配していた奥大日岳直下の雪庇は全く出ていない。ピークで写真撮影後、1年生を含む4人は奥大日岳へ。そして我々は御前に向かう。今日は無風快晴で雲海そして広大な弥陀ヶ原など周りの山々が美しく冬とは思えない天気だ。ピークより立山川側の雪庇に気を付けながら猛烈なラッセルが続く。しんどい。超スローペース。室堂乗越まで4時間半位かかった。11月は30分位だったのに・・・。帰りが不安だ。室堂乗越より1Pほど進んだ地点で日が落ちヘッドランプ行動となる。ここまで余りもぐらずにスピードアップ出来た。本日、便所の中にテントを張る。臭いはしない。デポ回収後、メシを腹一杯食べ24:00に寝た。今日は天気が良く風もない一日だったが奥大日岳からの下降ラッセルには参った。明日、剣岳アタック。
(回想)
 BCから奥大日岳を経て、御前小屋まで丸一日かかった。夏なら3時間位であろう。今年(H21年)の5月の連休に雷鳥沢から奥大日岳を往復した。往復4時間位であった。3人で、必死でラッセルしたが遅々として進まなかった。帰りは更にラッセルに苦しめられ丸二日かかった。テントは外に張ると飛ばされそうだったので、便所小屋の中に張った。中は冷凍室状態で氷の世界。風の影響もなく快適であった。御前小屋のトイレは、本館とは別々に建てられている。宿泊以外の者が使うためであろう。このトイレは小屋のように広くて3人用のテントは楽に張れた。ここに張ったのは正解で、この後に続く猛吹雪にも耐えることが出来た。

26日(金)風雪 沈殿
 風雪激しく沈殿。朝食後ガソリンを回収する。やはり冬山だ。いつも笑顔とは限らない。あと3日位粘ってBCへ戻る方が良いようだ。BCでは最後まで粘るように考えているが、それは危険だ。外はビュンビュンの吹雪だ。早く晴れてくれ!昼に雑煮を食う。美味い。時々、小屋全体がうなる。
(回想)
 強力な冬型の気圧配置。台風の様な強風の猛吹雪。外に張っていたら、テントごと吹き飛ばされたかも知れない。冬の劔は怖い。

27日(土)風雪 沈殿
 昨日同様に激しい風雪。沈殿。風速は20〜30m/S位だろうか?朝、小便の時、小屋の雷鳥沢側に回り込んだが目も開けられない程の吹雪だ。こんな天気が続くとどうなるのか?ただ、食料と燃料が十分にあるのでこの点は安心だ。9:00の交信では、BCから「年末から年始にかけて寒波が来るから、30日には下山するように。」と言ってきた。我々もそれに従いたい。そして28日・29日は悪天だそうだ。嫌になる。昼前に小屋に近づいたが風のために追い返された。12:12の交信は入らず。とにかくここは寒く、ラジオも無く暇な世界だ。剣岳アタックはもうどうでもいい。早く下りたい。これが本音だ。大阪では慌しい日が続いているのだろうか?BCではテントラッセルが物凄いそうだ。
(回想)
 猛吹雪の中、トイレのために外に出た。手袋を脱いだと同時に突風が吹き、その瞬間に手の指がロウソクのように真っ白になった。以前、聞いたことがある“瞬間的にかかる凍傷”だと思った。これにはビビッた。もうトイレどころではなく、慌ててテントに戻り西岡と八木に擦ってもらい、どうにか元に戻った。これ以後、吹雪の時はトイレにも行けなくなった。低温と強風で体感温度はマイナス数十度だったと思われる。

28日(日)風雪 沈殿
 依然として吹雪だ。もう剣岳アタックは断念した。昼前に便所も居心地が悪くなってきたので冬期小屋を探しに行く。ものの5分もしないうちに見つかった。ラッキー。最初からここに来れば良かった。荷物を2回に分けて全て運び込んだ。小屋の中は雪も少ししか入ってなくて快適。また、テーブルと椅子もある。そして、一橋大学・秀峰登高会・東京岳人倶楽部のデポもある。我々も11月にここにデポすれば良かった。12:12の交信によるとBCは猛烈な積雪のためテントが完全に埋まったらしい。なお、気圧配置は強力な冬型らしい。ラジオが手元にないので退屈だが小屋で本を2冊見つけた。合宿も半分以上が終わり、あとは全力で下山するだけだ。早く動ける天気になって欲しい。こんな天気が、あと1週間続くと危ない。大阪では皆心配しているだろうか?今井の話によると明日も引き続き悪天とのこと。嫌になる。
(回想)
 小屋がこんなにも簡単に見つかるとは思わなかった。御前に到着したのは、もう日が暮れて真っ暗だった。探しようもなかったが、秋の偵察の時に注意しておけばよかった。冬期小屋は快適であった。床は乾いているし広い。テントを張ると中は暖かかった。デポ缶に座りくつろげた。但し、電気がないので真っ暗であった。

29日(月)風雪 沈殿
 今朝も吹雪いている。沈殿4日目。今年も残すところあと30・31日と二日間だけとなった。家に居ると色々と考えられるのだが、山では年の瀬がピンとこないからかも知れないが、今年に対して名残惜しさはない。10:10の交信でBCでは豪雪のためテントを移動。また富山市内でも大雪のため交通が完全に麻痺しているらしい。BCからは悲壮な声が返ってくる。頼むから明日晴れてくれ!これが冬期小屋でなく外だったら我々も危なかっただろう。とにかく天気回復までここを動かないつもりだ。昼過ぎに明日の好天を期待してテルテル坊主を二つ吊り下げた。明日こそ晴れて欲しい!!!
(回想)
 こんな悪天の中に4日間も閉じ込められたのは初めてだった。正直なところ参った。ここは、風が強く雪はほとんど積もらないが、BCはドカ雪でえらい目に遭っていた。毎日、1m以上降ったらしい。この冬は、“五六豪雪”というドカ雪の中でも特に雪が多かった年である。毎日うんざりするくらい降った。ここで気が付いたのだが、雪は一日に1m以上は積もらないということである。50〜60cmは直ぐに積もるが、これ以上になると雪の重みで圧縮されて急速に積もることは無いようだった。ただし吹き溜まりには当てはまらない。吹き溜まりは容赦なく降り積もる。

30日(火)にわか雪+ガス  御前小屋⇒奥大日岳直下ピーク
 朝、何日かぶりかで星を見た。テルテル坊主のお陰だろうか?今日こそはBCに戻る。荷物をひとまとめにして小屋を掃除してから出発。快適な小屋を去るのは惜しい。アイゼンを着けて出発するが雷鳥沢のトラバースから急にラッセルが深くなりワッパを着ける。室堂乗越の直ぐ上で尾根に戻ったが、それまでは沢を下った。雪崩が怖かったが・・・。雪庇は何と雷鳥沢側に僅かに出ている。沢には2〜3本のクレバスが口を開け非常に恐ろしい。途中、八木がはまった。この頃の視界200m。奥大日岳は全く見えない。乗越からは猛烈なラッセルとなり胸から首まで沈む。しんどい。そしてなかなか進まない。途中から挑戦ボッカに切り換えた。今日中にはBCには帰れないので乗越より二つ目のピーク直下で幕営。体中が濡れ非常に寒い。明日こそBCへ。夜、チキンラーメンを思い切り食べる。なお、乗越から一つ目のピーク付近はナイフリッジで八ツ峰のようであった。
(回想)
 夜明け前の真っ暗な中、小屋を出た。1日でBCまで戻る予定だったが甘かった。室堂乗越辺りから猛烈なラッセル。風向きの為に吹き溜まりになるのだろうか?急斜面では首もしくは身体全体が没した。先頭は空身の挑戦ボッカ。また先が見えないので後方からルートを指示した。夏なら2時間で行ける所に、早朝から日没まで丸一日を費やした。

31日(水)快晴→晴れ  TS⇒BC
 素晴らしい天気だ。しかし昨夜は身体が濡れていて非常に寒かった。テントは凍って撤収に手間取る。昨日同様、挑戦ボッカで行く。TSより50m位でコブのピークに飛び出し、立山川側の雪庇に気を付けながら慎重に進む。1ケ所、幅5mにわたり板状雪崩が起きヒヤッとする。コルに降り、ここから奥大日岳への長い登りとなる。約2時間でピークへ。しかしこの間、雪崩と雪庇に気を使う。この辺りからは快晴の下、素晴らしい展望が楽しめる。この一瞬が良いのだ。しかし相変わらず胸まで沈むラッセルでスローペース。ピークからザイルを着け西岡が雪庇を見に行くが全く出ていない。しかし直下に大きなクレバスがあり慎重に行く。この後はアイゼンのみでノーザイルで降る。予想ではシビアだと考えていたのでホッとする。急な斜面だが前を向いて駆け下りる。しかし雪崩れそうで嫌な所だ。上部は腰位もぐったが、急斜面のため馬力だけで降りたが、下部は猛烈なラッセルでワッパを着ける。それでも腰位沈む。平坦な尾根に入り、その下の尾根が広くなっている所は、所々亀裂が走り来た時とえらい違いだ。大声でBCを呼び下からトランシーバーでルートを指示してもらう。そして右へ寄るがクレバスの手前で突然亀裂が崩れ転落し宙吊りになる。幸いザイルを着けていたので助かった。しかし血の気が引いた。その後、今井・大勝にサポートに出てもらい誘導を受けBCに戻る。久しぶりだ。大勝と今井の話によると我々が出てから物凄い豪雪でテントが埋まり、更にその上に1m積もったそうだ。そして今日の11時頃にヘリが飛んで来て通信管を落としていったという。他の山では遭難が相次ぎ、京都大学も赤谷尾根で下山中に2名が転落したとのこと。今日は今年最後の日。大晦日だ。年内下山したかったが残念ながら無理だった。明日から下山開始。馬場島まで三日で下りたい。しかし伊折から上市へも不通らしい。凍傷のため右足の指が非常に痛い。
(回想)
 奥大日岳ピークからの下降は恐ろしかった。急な上にクレバスが幾重にも渡り、口を開けていた。40〜50度位の斜面では、一度に大量の雪が一定の速度で降ると、雪が層を作らず、雪崩れずに面で動くのかも知れない。このクレバスの処理が大変であった。上から覗くと、幅と深さがどれ位なのか全く分からなかった。よって、トランシーバーでBCから指示をもらったが、これが曲者であった。下からも詳細まで見えていなかった。「大した亀裂ではない。」と聞き、ザイルを付けて下ったら、突然足場が崩れ宙吊りになった。血の気が引いた。クレバスの中を覗くと怪しく青味がかっていた。この日、京大が遭難した。同期が亡くなった。山で何度か会ったことがあり、話もしたことがある。後に聞いた話では雪庇の踏み抜きが原因らしい。また、八方尾根では逗子開成高校も遭難した。BCのテント横には巨大な“穴”があった。何かと聞いたらテントを掘り起こした跡だという。掘り出すのに8時間かかったらしい。また、テントの直ぐ傍にあった高さ数mの木がなくなっていた。雪に埋まったそうである。推測ではあるが、雪はこの1週間で4〜5m積ったと思われる。ヘリ(富山県警)が落としていった通信管(卒業証書を入れる黒い筒)には「馬場島へ連絡せよ!」とだけ書いてあった。この5日間の悪天のため各地で遭難が相次ぎ、安否を確認していたと思われる。この通信管は大勝が大事に持っていたが、この後の遭難騒ぎの下山中に捨てた。なお、通信管の投下点に辿り着くのにラッセルしながら1時間かかったらしい。ヘリも、テントかトレースの直ぐ傍に落として欲しかった。それからヘリは、しばらくホバリングしながらこっちを見ていたらしい。こちらの人数を数えていたのかも知れない。それに対して皆は手を振ったという。それに対してヘリの反応は無し。

1981年1月1日(木)晴れ プラトーBC⇒乙女の森
 いよいよ1981年の始まりである。BCより少し行った所で、剣御前より昇る初日の出を見て思わず手を合わした。プラトーの端のJP(ジャンクションピーク)まで昨日のトレースがあったので直ぐに着いた。しかし、ここからがまたしても猛烈なラッセル。立山川側に張り出した雪庇が非常に複雑だが気を付けて進む。挑戦ボッカ。恐ろしくて稜線 通しには行けない。15:30頃、西大谷山と1885mピークのコルに到着。しかし、この少し上部で西岡が捻挫した。今日は剣岳をはじめ遠く能登半島も望まれる。無風快晴で富山でも穏やかな正月を迎えていることだろう。テントを張る頃より風が吹き始め、明日は天気が崩れそうだ。ラジオでは元旦の初詣の人出を伝えている。ここでは無縁だが。しかし今夜の初夢は楽しみだ。
(回想)
 この合宿は23日間に及んだが、晴れたのは7日間だけだった。こんな悪天続きの中で初日の出を見ることが出来たのはラッキーだったのかも知れない。

2日(金)雪  沈殿
 昨夜23:00頃に、夕方からの強風が更に激しくなり後室のポールが突然折れフレームも2本折れた。ポールとフレームを補修した後に。テントの押さえを午前2:00過ぎまで行った。この後、風が弱まり寝た。シビアだ。本日、ガスが激しく、又、雪も降っているので沈。朝食後再び眠った。昼まで幾つも夢を見たがほとんど忘れた。沈殿食の安倍川餅は非常に不味かった。明日も天気は悪そうだ。
(回想)
 夜中に張り綱が抜けフレームが折れた。張り綱はしっかり固定すれば良かったが、BCではテントが埋まった時に、これを掘り出すのに苦労したらしい。このため、この日は浅く埋めていた。これが裏目に出た。それから、この夜の怪談話。テントが倒れそうなので吹雪の中、今井が様子を見に独りで外に出た。そしたら今井が何か言っているのが聞こえたが特に気にもせずにじっとしていた。その後、皆でテントを直し中に戻ると、今井から「さっき、早くせえ!と誰かワシに言ったやろ!誰や!」と言う。我々は、ただ今井が叫んでいる位にしか思わなかったが、彼は「早くせい!」に応えていたらしい。ミステリーである。

3日(土)吹雪 沈殿
 今朝も吹雪いている。今日も沈殿。ここに来て二日間だ。明日、沈殿であれば食料統制に入る。富山市内では今朝までに24cm積もったと聞いた。本日、大学駅伝では順天堂大学が、ラグビーは同志社大学が勝った。明日も16:00からの天気図では晴天は期待できない。皆早く下山したいようだ。

4日(日)風雪  沈殿
 今日も吹雪だ。昨夜のニュースでは、剣岳では17パーティーが下山し、残すところ4パーティー20人となったそうだ。随分減ったものだ。現在、気圧配置は冬型で明日は緩みそうだ。相変わらず下界は大雪で高山線、大糸線、そして幹線道路も不通の箇所が多いらしい。大阪では皆心配していることだろう。昼前から昼過ぎまでトランプを楽しんだ。テントも次第に沈み出し、皆、食べ物と帰る話しばかり。この合宿にもうんざりしている。何と言っても今日で入山19日目なのだから・・・。夕方、明日の好天を期待してまたしてもテルテル坊主を吊り下げた。明日の天気は16:00の天気図からでは少し持ち直すようだ。出来たら一日で馬場島まで降りたい。

5日(月)雪  TS⇒小又川川原ビバーグ
 雪混じりだが視界が利くので出発。TSから前よりかなり大きくなった1885mピークに登る。胸から首まで沈むラッセル。とても荷を担いでは行けない。ここからクズバ山へ向かって稜線直下の雪面をトラバースする。往路は雪庇とのギリギリの境界を進んだが今は恐ろしくて行けない。巨大な雪庇が複雑に出ている。最低コルから少し進んだ所で西岡が雪庇を踏み抜いたが事なきを得た。そのためにクズバ山までは気を使った。クズバ山から100m位降りた所で稜線に複雑に発達した雪庇のため進めなくて小又川側から巻く。この時、西岡が独りで進み過ぎ怒鳴ってやった。少し下り過ぎ稜線に戻ることにする。稜線まで残り20mという所で、突然トップの大勝とセカンドの今井の間で崩れ、7人共に雪崩に巻き込まれた。頭が上になったり下になったり、目の前が暗くなったり明るくなったりして非常に長く感じられるほど流された。気が付くと、これまでとは全く違った風景で広い沢(幅50m)の真ん中に座っていた。我に返って周りを見ると、10mほど横に東。30m位上部に西岡。直ぐ左下に西岡のザック。更に僕の30m位下に大内。更に20m下部に八木がいた。怒鳴ると八木のザックが無くなり、左足を打撲。僕と大内はメガネを失った。12:40。13:00頃に、何と上部から今井と大勝が降りてきた。それまで彼らのことは忘れていた。二人は10mもしないうちに止まったそうで「自分らだけ助かった。」と思ったという。まさかこんな下にいるとは思わなかったそうでザックは上に置いてきている。我々は雪崩発生地点から標高差500mで距離にして1000m位流されたらしい。八木の足や今後のこと。特に登り返す時の雪崩の危険性。そしてテントがないことを考えて一か八かこの沢を降ることにした。今井と大勝はザックが上にあり、また、再びこの沢を下降するのが危険なので登り返して尾根から帰ることにした。僕らのレーションと非常食を彼らに渡した。この時、馬場島へ交信したが応答なし。沢の幅は40〜50mで傾斜は強くない。しかし周りからの雪崩が怖い。4時間位ひたすら降りラッセルも膝から胸になる。この後、沢は次第に狭くなり滝と思われる所に近づいた。切れているが下降できそうだった。しかし雪崩の危険を考え右岸の尾根を一つ越え、中山のコルから西へ小又川へ続く西小糸谷を下る。途中で真っ暗になり更にどんどん降ると、突然、川の音が聞こえ、そこが小又川の川原だと知った。ここまで緊張の連続で本当にホッとした。今夜はテントがないので川原に雪洞を掘りビバーグ。夜は恐ろしいほど寒くとても眠れる天気ではない。一晩中、何かを食べていた。今井・大勝パーティーは1625m台地付近で幕営。
(回想)
 怖かった。雪崩に巻き込まれながら「俺も最期や!」と思った。雪崩の中では、お経を唱える以外に成すすべがなかった。雪の圧力は相当なもので“泳ぐ”ことや“ザックを肩から外す”ことなど出来なくて、ただ、もがくだけだった。「洗濯機の中に入れられたような感じ。」と誰かが言ったが的を得た表現である。当初、巻き込まれたのは私だけだと思った。止まってから、他にも流された者がいたので驚いた。本来なら人数を確認し、埋没者を直ぐに掘り出すべきであるが、そんな余裕は無かった。完全なパニック状態であった。お恥ずかしい話である。雪崩の原因はルートミスと雪質を読めなかったことだろう。雪崩の発生場所は、傾斜40度程の雪壁で、雪質は表面が凍っていて、中はグラニュー糖のようなザラメ雪であった。これまでにない不安定な雪質であった。今井の話によるとトップの大勝とセカンドの今井の間で、大勝の足元から崩れたらしい。この直前に、大勝には亀裂が見えていたのかも知れない。これらは後日談で大勝には確認していないが・・・。残された今井は5人が消えた後、「誰か埋まっているかも知れない。」とそこら辺を独りで掘っていたと大勝から聞いた。美談である。対策としてザイルを出していたら巻き込まれなかったと思う。BCからの帰路は、ほぼ尾根上を下降した。この時、初めて尾根から外れて雪壁を稜線に戻った。ルートミスである。また、この前に雪の表面が雪崩ていくのを何度か見た。雪崩の前兆は結構あった。どうせザイルを出しても出さなくても猛烈なラッセルで時間的には変わらなかったと思う。判断ミスである。八木が担いでいたテントがザックと共に無くなった。このために沢筋を下ったが、結果的には正解だったと思う。今井・大勝は登り返した。この時に彼らに非常食を渡したが涙が出た。もう会えないような気がした。この沢は池ノ谷や東大谷のように急峻ではなくなだらかであった。そのためか下部はラッセルがきつかった。日が沈みかけ焦っていた頃、東が「対岸の山が見えます。」と言った時、「助かった!」と思った。私はメガネを失くし何も見えなかった(私の視力は両眼とも0,1以下である)。ビバーグは小又川の真ん中に縦穴を掘りツエルトを被って行った。これは無茶である。川の真ん中は非常に危険である。もっと雪崩の危険の少ない所で行うべきであった。雪崩にはやられたが、それ以後は幸運続きであった。

6日(火)雪  BS⇒馬場島山荘
 雪がパラついているが出発。何と言っても全身ビショ濡れなのが痛い。TSから腰位のラッセルで進む。三箇所の砂防ダムを越えた所で小又川の鉄橋を渡る京都大学パーティーに出会った。30名位いた。その中の一人のOBの方が我々を待って下さり紅茶を戴いた。その人の話によると、昨日15:00の交信が馬場島で受信されたという。京大は遭難の捜索を断念し帰るのだそうだ。鉄橋からは京大のトレースがあり馬場島まで楽勝で行く。ただ豪雪のため地形が大きく変わっている。馬場島では昨日の連絡のため大騒ぎで根掘り葉掘り聞かれた。大阪から松本さん、大森さん、薮内さんがこちらへ向かっている。そして、各自の親は大心配。今井・大勝は、15:00の交信では中山のコル目指して前進中。18:06の交信では950m地点で幕営。馬場島は暖かくて快適。今夜はここに泊まる。
(回想)
 馬場島の風景は入山時と比べて一変していた。大雪で全てが埋まっていた。歩いているとロープが引っ掛かった。「何だ?」と思って引っ張ると電線であった。電柱が完全に埋まる位だから5〜6mの積雪だと思われた。馬場島山荘は暖かく快適であった。食事も美味しかった。これまでは怪しげな雑炊ばかりであった。強烈な暖房でシュラフも乾き、夜は爆睡。今井・大勝は必死なのに・・・。

7日(水)雪  中山のコルまでサポート
 6:30サポートに出る。馬場島のサカイさんも共に出発。東小糸谷まで腰のラッセル。ここで9:09の交信の後、中山のコルを目指す。入山時は狭い谷だと感じたが、今は広い沢となっている。無論、水など流れていない。中山のコル直下で胸位のラッセルとなり急にスピードダウン。しかし、馬場島のサカイさんのラッセル力には驚いた。13:00中山のコルの少し上部で合流し下る。二人はかなりバテている。山荘で軽い昼食の後、八木と松本さん達のサポートに出る。1時間程行き、橋の上で八木が雪庇を踏み抜き、約3m下の川に転落し、その後、暗くなってきたので直ぐに帰った。夜はサカイさんも交え大コンパ。ラッキー!
(回想)
 今井・大勝とはなかなか合流出来なかった。出会った時は本当にホッとした。夕方、八木と救助隊のサポートに出た。八木が雪庇を踏み抜き川に落ち、「これはいかん!」と直ぐに引き返した。水の無い所で良かった。夕食の“味噌鍋”が美味しかった。白菜や竹輪が入っていた記憶がある。大宴会だった。全員揃って大騒ぎ。楽しかった。この時、救助隊は冬期用のトンネルの中でビバーグ中。大阪に帰ってから、この夜のことは大ヒンシュクであった。今でもたまに話題になる。サカイさんは元富山県警の山岳警備隊員であった。年齢は30過ぎであったが体力があった。力任せに突き進む姿は頼もしかった。

8日(木)晴れ 馬場島⇒ヨモギ沢 下山
 昨夜は楽しかった。久しぶりに太陽を見た。8:00に松本さん達のサポートに出る。昨日引き返した地点で出会った。夕べはトンネル内で泊まったのだそうだ。合流後、山荘に戻り挨拶の後、直ぐに荷物をまとめ帰る。スキーのトレース跡を進むがボコボコ沈み、なかなか前へ進まない。しかし、小又川の鉄橋を渡り終える頃から飛ばして、やっとこさ伊折へ。この手前で日が落ちた。中村さん宅でお茶と芋をご馳走になり、更に除雪された道をヨモギ沢まで歩いた。そこからタクシーで富山へ向かった。改めて雪の多さに驚いた。12月17日からの23日間にわたる、長い冬山合宿はやっと終わった。
(回想)
 馬場島からよもぎ沢までは長かった。必死で歩いた。生還できて良かった。この夜に、富山で食事中に松本さんから「お前らが付いていて、こんな事になるとはどういうことや!」とひどく怒られた。この一言は本当に参った。それにしても皆さんに迷惑を掛けた。特に親には。山岳部内では皆が、自分の家の話はほとんどしなかった。しかし、この遭難騒ぎで親がいかに子供のことを心配しているのか痛感した。無事の知らせに涙ぐむ親も大勢いた。現在、私には3人の息子がいるが、当時の親の心境がよく理解出来る。我々は親不孝者であった。

9日(金)雪→晴れ
 富山で県警と朝日新聞へのお礼の後、ヒュッテに向かった。1月10日に帰阪。
(回想)
 長かった冬山合宿はやっと終わった。疲れた。4年生の最後の合宿で遭難騒ぎを起こした。何よりも全員生きていたことにホッとしていた。今井は5人が流された時、「就職は取り消しや!」と思ったという。捜索で就職どころではない。もし誰かが亡くなっていたら皆の人生は変わっていただろう。幸運の一言に尽きる。

◎2月7日(土)晴れ  裏六甲 大谷川 氷瀑登り    東  甲南大学山岳部
 東と氷瀑登りに行く。宝塚から有馬行のバスに乗り約40分で終点に着く。ここで下車。ここからロープウェイ乗場まで行き、更にその直ぐ左の林道を進むと白石谷と湯槽谷の二俣に出る。ここまで迷った。白石谷に入り白石ダムを越えると白石ノ滝にぶつかる。ここには立て札があり滝の名前がすぐに分かる。この滝の30m位下流で右手からルンゼが入り、ここが百間滝方面へ向かう谷である。20m位の廊下が続くが凍っていて滑る。10分も行くと百間滝が見える。ここにも立て札がある。この滝は30m位で傾斜もあり見事な氷瀑である。しかし相当手強そうで下部の5mだけ登り、その下でステップカットとダブルアックスの練習をして更に奥へ向かった。本谷へ戻り5分位遡ると、また右手に二段の30m位の見事な氷瀑が現れた。今度は傾斜も緩く何とか登れそうだ。直ぐにアイゼンを着け登り始める。この滝は似位滝。適当にステップを切りながら登るが易しい。15mで一段目を越してテラスへ。ただ、途中ランニングビレーが取れないので恐ろしいが・・・。二段目15mは東がトップで登る。ここは落口への最後の5mで右を登るのだが少し悪い。東は直ぐに登ったが僕は悩んでしまった。この後、カチコチに凍った流れを詰めて行くと5mと3mの氷瀑があり、それを難なく越えて下降に移る。踏跡を辿り10分で似位滝に戻る。昼食後、先程の下降路を登り返して、六甲山最高峰を目指したが、源流でヤブ漕ぎとなり、うっとうしいので戻り白石谷を遡る。幾つも滝を越え1時間少しで一軒茶屋へ出た。ここから住吉道を通り大学へ戻る。百間滝・似位滝と共に素晴らしい氷瀑である。アイスクライミングにはもってこいの所。だが、寒波が来ないと駄目らしい。我々はラッキーであった。
(回想)
 この冬は酷寒だったので結氷状態は良かった。東は、この後に何度か通ったらしいが、「私と訪れたこの時が最も良かった。」と言っていた。この時は水が流れることもなく完全に凍っていた。六甲だと気温の低下はそれ程ではないので、暖冬の時は凍らないのだろう。私は30年近く長野に住んでいたが、信州の冷え込み方は急激で持続した。長野に有馬温泉があれば、毎年見事な氷瀑が出来るのだろうが。まあ有馬の氷瀑は、近くて手軽に楽しめる良い所だと思う。

◎2月28日〜3月1日 裏六甲 大谷川氷瀑登り 西岡・八木・東 甲南大学山岳部
28日(土)晴れ
 氷瀑登りに行く。前回は有馬から迷いに迷ったが今回はすんなり行った。2〜3日前から日本列島は猛烈な寒波にみまわれ期待して行ったが、百間滝・似位滝と共に結氷状態が悪く、似位滝下部でピオレトラクションの練習をして帰った。ここでは、神戸アルパインソサイティーの方の指導を受けた。この後、15:15発のバスで蓬莱峡へ向かった。蓬莱峡では八木と5本位登った。

3月1日(日)曇り→にわか雪  蓬莱峡
 昨夜は非常に寒くよく眠れなかった。朝から生憎の曇り空。今日は8mm撮影するつもりだったが駄目である。アイゼンを着け岩登りの練習をするが10:00頃より白いものが舞い始め、14:00頃には銀世界となった。関学は元気に登っていたが我々は帰ることにした。今日は寒さのためか足の指先がひどく痛かった。
(回想)
 この冬は、冬山で負った凍傷が治らず辛かった。T度であったが、指先の痛みが激しかった。低温に23日間もさらされたからである。温まると痛むので冬だというのにサンダルで歩いていた。夜も布団に入ると痛んだので、布団から足だけを出して寝た。この後も数年間は、秋から冬への変わり目で神経痛が出た。

【山行記録】
1)1974年 7月 栂池⇒白馬岳⇒蓮華温泉       泉尾高校山岳スキー部
2)1975年 7月 栂池⇒白馬岳⇒大雪渓⇒猿倉     泉尾高校山岳スキー部
3)1976年 7月 大雪渓⇒白馬岳⇒風吹大池      泉尾高校山岳スキー部
4)      8月 比良山系 奥ノ深谷         澤田・公文
5)      8月 比良全山縦走            中井
6)     11月 比良山系 ヘク谷          単独
7)1977年 5月 雷鳥平定着・立山三山巡り      甲南大学山岳部
8)      6月 比良山系 奥ノ深谷         甲南大学山岳部 
9)      7月 剣岳・真砂沢定着          甲南大学山岳部
          ・東大谷・八ツ峰重曹・八ツ峰Y峰CフェースRCCルート
          ・縦走:剣岳⇒薬師岳⇒雲ノ平⇒槍ヶ岳⇒前穂高岳⇒上高地 
10)     10月 比良山系 奥ノ深谷 口ノ深谷    甲南大学山岳部
11)     11月 富士山               甲南大学山岳部
12)     12月 毛勝山北西尾根           甲南大学山岳部
13)1978年 3月 知床半島縦走(羅臼岳⇒知床岳)   甲南大学山岳部
14)      5月 剣岳北方稜線縦走          甲南大学山岳部
            (ブナクラ谷⇒赤谷山⇒剣岳⇒三田平)
            剣岳八ツ峰T峰三稜
15)      7月 剣岳真砂沢定着           甲南大学山岳部
           ・早月尾根毛勝谷左俣・池ノ谷中央ルンゼ上半
           ・池ノ谷剣尾根上半/下半縦走・東大谷G3
・八ツ峰Y峰Dフェース富山大/Aフェース中大
・チンネ左下/左方カンテ/北条新村GCD
・黒部川黒薙川柳又谷(敗退)
16)     10月 奥又白谷・前穂W峰正面(敗退)   甲南大学山岳部
17)     10月 比良山系 貫井谷左俣        甲南大学山岳部
18)     11月 雷鳥平(剣岳アタック 前剣で敗退) 甲南大学山岳部
19)     12月 剣岳早月尾根            甲南大学山岳部
20)1979年 3月 鹿島槍ヶ岳北壁主稜(敗退)     甲南大学山岳部
            鹿島槍ヶ岳北壁ピークリッジP2   
            赤岩尾根⇒五竜岳⇒八方尾根縦走
21)      5月 黒部・内蔵助平定着         甲南大学山岳部
            ・立山第3尾根・剣岳八ツ峰縦走(T・Uのコル⇒本峰)
22)      6月 槍ヶ岳硫黄尾根⇒槍ヶ岳⇒上高地   甲南大学山岳部
         7月 剣岳真砂沢定着           甲南大学山岳部
・八ツ峰Y峰Cフェース剣稜会/Dフェース富山大/
             Aフェース魚津高・チンネ中央チムニーGCD
・源治郎尾根U峰平蔵谷側ABフェース/Bフェースカンテ
            ・東大谷G2/G4(敗退)
            ・北方稜線(大窓⇒池ノ平山⇒池ノ平小屋)
・黒部川黒薙川北又谷遡行⇒黒岩谷⇒蓮華温泉
23)     10月 穂高岳屏風岩1ルンゼ        甲南大学山岳部
24)     11月 槍ヶ岳硫黄尾根⇒中崎尾根下降    甲南大学山岳部
25)     12月 槍ヶ岳硫黄尾根⇒中崎尾根下降    甲南大学山岳部
26)1980年 2月 八ヶ岳阿弥陀岳南稜(敗退)     甲南大学山岳部
27)      3月 後立山縦走(七倉尾根⇒針ノ木岳⇒鹿島槍ヶ岳
                  ⇒五竜岳⇒白馬岳⇒栂池)甲南大学山岳部
28)      5月 穂高岳岳沢定着           甲南大学山岳部
            ・奥穂高岳南稜/畳岩尾根
29)      7月 剣岳真砂沢定着           甲南大学山岳部
            ・源治郎尾根縦走/U峰平蔵谷側iリンネ
            ・八ツ峰Y峰Cフェース剣稜会
            ・チンネ下部左稜線aバンドbクラック
・黒部丸山東壁1ルンゼ右ルート
・黒部川黒薙川柳又谷(敗退)
         8月 比良山系 大谷川中谷右俣遡行⇒安曇川白滝谷下降
             ⇒安曇川八幡谷右俣遡行⇒比良川神爾谷下降  単独
30)     12月 奥大日岳奥大日尾根         甲南大学山岳部
            (伊折⇔馬場島⇔奥大日岳⇔剣御前小屋)

【最後に】
 大学生活は“山登りに始まり、山登りで終わった”。年間100日近く山にいた。辛いことも多かったが、それ以上に楽しいことが多かった。4年間続けられたのは、仲間に恵まれたからである。先輩・同期・後輩、皆さんには本当にお世話になった。感謝している。当山岳部は、関東の大学では当たり前に行われていた“しごき”がなかった。まあ、毎年入ってくる新人も少なく、そんなことをしたら部は早い時期に潰れていたと思うが・・・。もう一度あの頃に戻れたら、多分同じ人生を送ると思う。山登りは、3K(キツイ・汚い・危険)である。しかし、自然が相手なので、それ以上に楽しくて面白いことも多い。もっと、若い人には山へ登ってもらいたい。大自然を肌で感じてもらいたい。現在、山は中高年登山者が多い。私もその一味だが、あと20年も経つと山へ登る人はいなくなるのではないだろうか。残念なことである。
 印象に残っている山行は、知床半島(1年生春山)・池ノ谷中央ルンゼ(2年生夏山)・鹿島槍ヶ岳北壁主稜(2年生春山)・八ツ峰(3年生5月)・北又谷(三年生夏山)・硫黄尾根(3年生冬山)・後立縦走(3年生春山)・奥大日尾根(4年生冬山)である。どれも困難だったが良い思い出である。この中で、知床半島は近いうちに嫁ハンを連れ、羅臼から海岸沿いに岬を目指そうと考えている。もちろん夏にである。知床岬は、“やり残した宿題”のようなものである。
 現在、山には北アルプスを中心に、年に3〜4回登るだけである。季節は5月から11月までで、ピークハントや一般登山道ではない縦走である。また、ほとんどが単独の山小屋泊りである。最近、新しい二人用のテントを買ったので、これからはテント山行を行いたいと考えている。ただ、この秋(09年10月)に松本から大阪へ転居したので、北アルプスには通い難くなった。残念である。トレーニングも土日を中心に10kmずつ走っている。また、大阪城での石垣で岩登りの真似事を行っている(先日、警備員に注意されたが懲りていない。)。
 これで私の4年間の山行記録は終わりです。最後まで御覧頂きありがとうございました。
                               2009年12月
以上
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