◎ 薮内さん遭難捜索の記録(鹿島槍ヶ岳) 1985年1月6日〜13日
今から25年前に私の一つ上の先輩である“薮内さん”が鹿島槍ヶ岳で遭難されました。以下のものはその時の記録です。最近、本棚を整理中に出てきました。私自身この日記を完全に忘れていました。当時、私は長野市に住んでいて捜索活動に加わりましたが、全く力になれず悔しい思いをしました。なお、同期の今井も偶然にも松本に住んでいました。以下、記録です。
1985年 1月6日(日)
前日より泉尾高校山岳スキー部の試合があり、現役を励まそうと思い白馬乗鞍のヒュッテに行った。この日の朝、ヒュッテの管理人と共に峰方スキー場に向かった。白馬以北はかなりの雪だ。今夜、今井が松本から遊びに来るというので、夕方、峰方から電話を入れた。この時「薮内さんが、明日最終下山日なのにまだ帰って来ない。」という連絡を受けた。今井は、とにかく明日、現地連絡本部に寄るということ。それから今夜は私の長野の家に、私に貸している冬山の装備を取りに来る。私も急いで長野へ戻り今井と会った。渋谷さんへ連絡したら、「明日、二人で飯森の丸上館へ行くように。」と指示される。宝塚山の会からも一人現地入りする。宮本さん(当時の私の上司)には、明日から2〜3日間休暇をもらう。ヘリを飛ばし、今井と乗り込む予定。
(回想)
この時は、遭難するとは夢にも思っていなかった。「明日の夜、薮内さんと今井と三人で松本で飲むぞ。」くらいの軽い気持ちだった。薮内さんは、元気一杯でラッセルしながら下山していると思っていた。丸上館は五竜スキー場の麓にある民宿で、この後、現地連絡本部となった。
7日(月) 雪
朝5時に長野を出発。現地には7時頃到着。天気は吹雪でヘリは飛びそうにない。宝塚山の会からは、栢さんをリーダーとする5人の方が来ていた。取りあえず、藪内さん達はトランシーバーを持っているので、交信するために今井と宝塚山の会の一人が峰方へ向かう。私は、西江さん、野上さんと大町警察へ向かった。県警では、「最終下山日まであと一日あるので、それ以後でなければ動かない。」とのこと。とにかく入山届を参考に調査することにした。1月1日に布引岳を出発したのは確実で、2日に五竜岳でそれらしきパーティを見たという情報も得た。私は2日に五竜は早過ぎると思ったが・・・。午前中はこれで引き返し、夕方、再び大町署に向かった。「15:00に遭難を発表する。」というのだ。警察には大勢の報道関係者が詰め掛けていた。県警の人は午前とはうって変わり、「鹿島槍ヶ岳〜キレット間にはいなくて、白馬岳にもう既に着いている。」と予想を出していた。年始からの天気の悪さを考えて、これは余りにも早過ぎると感じた。宿に戻り、7人で色々と検討したが、八方尾根・遠見尾根は下っていないようだし、キレットの下降で滑落したのでは?というのがまとまった。そうであれば絶望に近いが・・・。夜10時頃、渋谷さんへ電話したら「私と今井は、とにかく一度家に帰るように。」と指示を受けた。後ろ髪を引かれる思いをしたが長野へ戻った。12時過ぎに帰宅。
(回想)
峰方スキー場(今は“みねかたスキー場”とひらがなで書く)は後立山連峰の姫川を隔てた対岸にある。スキー場の最上部からは、鹿島槍〜白馬がよく見える。遮るものが何もないので薮内さんとの交信にはうってつけの場所と考えた。しかし応答はなかった。この日の夕方、遭難を確信した。正直なところ信じられなかった。この夜は帰宅したが、今、振り返ると残るべきであったと思う。宝塚山の会は、エキスパートの集まりではなかった。主力メンバーは今回遭難した4人で、対応も十分でなく手助けすべきであった。
8日(火)
夕方のテレビと新聞で「全く手掛かりなし」という情報を得た。あのスーパーマンの薮内さんが遭難するとは信じられない。今井、八木、要さん、平井さんに電話。
9日(水)
支店長に1月15日まで休暇をもらう。今井へ電話を入れた。明日、高知から住友さん、大阪から八木、東、松本さん。東京から大庭さん、要さんが現地入りするという。私と今井も行く。
10日(木) 雪 鹿島部落⇒西俣出合
6時に丸上館に到着。井上さん、松本さん、大庭さん、住友さん、要さん、今井、西岡、八木、東が来ていた。井上さんの指示で、冷池山荘までヘリで上げてもらうこととなる。メンバーは、松本さん・住友さん・今井・西岡・八木・東・私である。この時、一瞬顔色が変わった。この体力で行けるだろうか?直ぐに準備をしてヘリポートに向かう。1回目搭乗の住友さん、今井、東が、悪天のため引き返してきた。ガスで上空は全く見えない。一旦、丸上館に戻り、次は下から赤岩尾根経由で冷池を目指すことになる。昼食を食べ、荷造りをやり直し、直ぐに出発。鹿島部落から大谷原経由で西俣出合に幕営。大谷原には川崎柴笛クラブのBCがあった。トレースがあり全くラッセルなしであったが非常に疲れた。夜はとても冷え込み寒かった。
(回想)
朝の集まりで、「この山域に詳しいから。」と私と今井が今回の指揮を取れと言われた。私は、2年生の3月に赤岩尾根から鹿島槍、五竜を経て唐松まで縦走した(薮内さんと同行)。また3年生の3月には七倉尾根から針ノ木を経て白馬まで縦走していた。確かにこの中では経験が最も豊富であった。しかし体力には全く自信がなかった。冬山はトレーニングや準備なしで登れるほど甘くはない。皆の足を引っ張るだけである。実は、この年の春に結婚を控えていた。また、この半年前の夏山で事故も起こしていた。所属していた“山の会”の夏山合宿で、パートナーが頭部に落石を受け、脳挫傷を起こしヘリで搬出されていた。こんな事があり、山登りからは遠ざかろうと考えていた。全くトレーニングはやっていなかった。ヘリで稜線まで上げてもらえるというので捜索に向かった。ヘリポートは白馬駅から糸魚川方面へ数キロの国道沿いの川原であった。今は“道の駅”となっている。長野オリンピックの時は駐車場であった。この日は小雪混じりの悪天で北アルプスは全く見えなかった。第1便は直ぐに引き返してきた。住友さんによると風が非常に強く着陸は論外だったという。結局、赤岩尾根経由で向かうことになったがバテバテであった。辛かった。
11日(金) 快晴 TS⇒冷池山荘
いきなり急登。ピッチが上がらない。ラッセルはなくて、川崎パーティのトレースが付いていて階段なのだが・・・。東・八木・西岡は非常に元気で今井はバテ気味だ。ボブスレーのようなラッセル跡を3Pで高千穂平へ。大学2年の時よりも随分としんどく感じた。あの時はここまで簡単に登った気がしたのだが・・・。高千穂平も以前の印象とは違いひどく痩せた平に感じた。平には川崎パーティのテントがあった。この後は、痩せた尾根となりキノコ雪も出来ている。稜線直下は雪崩そうな急斜面となり嫌な所だ。以前に来た時はここからトラバースして稜線に抜けたが、今はとても出来そうな状態ではなく、少し膨らんで尾根上になっている所を直登することにする。ここは腹がつかえそうなくらい急で、滑ったらストレートに下まで行く嫌な所だ。約70mでこれを抜ける。赤岩尾根の頭からは約30分で冷池山荘に着いた。今日は快晴で鹿島槍がとても美しく、薮内さんが遭難していて、助けに来たのを忘れてしまいそうだ。冬期小屋に入る。中には宝塚山の会関係の二人の方がいた。今日、鹿島の北峰まで行ってきたとのこと。手掛かりは全くなしということだった。冬期小屋は暗くて寒い所だ。
(回想)
川崎柴笛クラブは鹿島槍ヶ岳東尾根で遭難した。11人全てが亡くなった。雪崩である。こちらもかなりの人が来ていた。赤岩尾根はしんどかった。冷池小屋にはバテバテで着いた。今井はもっとバテていた。大学時代は最も体力があったのに・・・。
12日(土) 晴れ→雪
住友さん、八木、東でキレット方面。松本さん、西岡が牛首尾根方面へ向かった。私と今井は待機。その後、サポートに出たが、社会人パーティに追い付けずリタイヤ。布引岳の登りがきつそうで嫌になった。こんなに急だったか全く記憶にない。それに風も強く嫌だ。天気は下り坂。キレット隊、牛首尾根隊も戻り、揃ったところで下山する。天気が悪くなる前に、赤岩尾根まで行こうと急いだがピッチが上がらない。頭からの急な降りは1Pフィックス。久しぶりの雪壁の下降にビビッた。クライミングダウンで慎重に降る。この後は疲れた身体に鞭を打って、歩け!歩け!高千穂平を過ぎ、西俣出合で日が落ちた。途中、何度も捻挫しそうになった。足に疲れがたまっていた。ここから更に2Pで鹿島部落へ。バテバテだ。この後、鹿島部落より丸上館へ電話。しかし、平井さんは、「もう一度、上へ上れ。」これには参った。しかし、結局全員、丸上館へ引き揚げた。丸上館には、藪内さんの家族もおられて、とても重苦しい空気が漂っていた。山本、大勝も詰めかけ、明日登るという。私は体力と精神力に自信が持てずに辞退した。結局、松本さん、今井、八木、西岡と共に帰った。松本の今井宅へ向かう。ビールを飲んだが直ぐに酔いがまわりグロッキー。
(回想)
サポートとは名ばかりでフラフラだった。それに寒さが追い討ちをかけた。布引岳を登った辺りで勝手に引き返した。皆と合流した時に住友さんから怒られた。やはり冬山は厳しかった。下山も大変だった。荷も軽いのにバテバテでやっとのことで鹿島部落へ辿り着いた。丸上館には大勢が詰め掛けていた。結局、遭難場所や原因など手がかかりは全くえられなかった何も出来なくて、薮内さんのご家族に合わせる顔がなかった。また、自分の不甲斐無さに嫌になった。
13日(日)
長野へ帰った。夜、今井より電話があり、捜索が打ち切りだという。皆が集まっているというので松本の今井宅へ行った。打ち切りは当然のことかも知れない。しかし、実際にこのようになると悲しくなった。
(回想)
松本では悲しい宴会となっていた。“薮内さんは本当に亡くなったんだ”とこの時はじめて自覚した。寂しい夜だった。
【追記】
この後も、薮内さん達の遭難場所は特定出来なかった。鹿島槍〜五竜の間と予想されたが目撃者がいないので何も分からなかった。5月の連休からは何度となく捜索隊が出たが全く手掛かりは掴めなかった。私も5月と7月に鹿島方面に向かったが何の成果もなかった。遺品発見の報告があったのは7月下旬だった。場所は東谷である。東谷は鹿島槍の黒部側の急峻な谷である。鹿島槍から八峰キレットに向かう途中で滑落したと思われた。鹿島槍の南峰と北峰の間の最低コルから、キレットに向かう途中のトラバースで雪崩に遭ったのではないだろうか。私はここを3月に二度通過している。二度ともザイルを使わなかったので、それ程傾斜はないと思う。このトラバースよりキレットの最低部からキレット小屋までの方が悪かった記憶がある。北峰上部で発生した雪崩に巻き込まれたのではないだろうか。この辺りではかつて雲表山岳会(3名)が遭難した(昭和43年冬)。同じように雪崩から滑落と推定していた。こちらはザイルを出していた。
8月に入り、薮内さん発見の報を受け、直ちに大町に向かった。お盆の頃だった。薮内さんはヘリで扇沢へ下ろされ、大町のお寺、長性院に運ばれた。真夏の非常に暑い日で、私の服装は、短パンにTシャツ。履物はサンダル。皆もそれに近い格好だった。しかし、薮内さんは冬山完全装備で登攀具を着け横たわっていた。何とも不思議な気になった。これまで、遭難したことは頭では分かっていても正直なところ実感がなかった。この姿を見て遭難を確信した。見覚えのある登攀具・冬用登山靴など、正に薮内さんであった。
(2009年12月 記)
以上
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