カラクリ湖
今回の遠征が終わったら、カラクリ湖へ行きたい。小生のたっての希望を受け入れてもらい、日にちに余裕があれば、二日間だけそれに当てましょう、と言うことで、中国へのビザも拾得しておいた。ところが全ての計画があまりにもスムースに消化してしまい、一週間の余裕が出来てしまった。それでニッパ旅行社にカラクリ湖への手配を早めてもらうよう頼んだところ、そちらで勝手にやってくれ、とのつれない返事。それではと、こちらで手配することになった。後で解ったことだが、カラクリ湖と言うよりも、中国の辺境へ出かけるのが、1日や2日の事で、手配完了なんて事は、遠いイスラマバードからではとても無理なことで、つれない返事は、責任ある回答だったのである。
カラクリ湖は中国新彊ウイグル自治区、タクラマカン砂漠の西にあって、パミール高原の南東にある。標高約3,500m名前の通り紺碧の湖面に映えるムスターグアタ(7,546m)で有名である。(写真は ムスタ−グ・アタ−)すぐ北にはコングール峰(7719m)が聳えている。
シルクロードの内パキスタンへ通ずる途上にある。ここへ行くには、スストからクンジェラブ峠(4,709m)にある中パ国境を越え、新彊最奥の町タシュクルガンを通って行く。スストから358キロ、KKHを走る、中国とパキスタンを直接結んでいる道はそれしか道はない。歩いてもである。スストは国境の町と言ってい良いのではないか。町は小さい。此処に税関があって、手続きが出来るようになっている。全ての交渉事は米山隊長一人にお任せである。交渉はガイドのナウシャッドを伴っての事ではあるが、彼らの話す英語は巻き舌で、よく解らぬ。池内の英語はポーター達と夜になると会話がはずんでいるが、交渉毎となると、ちと不安である。雨宮、小生は門外漢。米山隊長孤軍奮闘である。スストには幾人か中国まで運転できる資格を持ったのが居て、それを探すことから始まった。うまい具合に
見つかったが、ひも付きであった。パキスタンのお役人でナジーム(26才)と名乗る男とエンジニヤと称する中年のおっさんが同乗してきた。我々4人と運転手それにさいぜんの二人を加えて、合計7人、狭いジープで肩寄せあってでかけた。クンジェラブ峠のパキスタンは難なく通過して、中国に入りすぐに検問所にさしかかる。ここでの検問はしつこかった。センサーを通して、リュックはオープン。中身まですっかり引っぱり出しての検査である。我々だけかと思ったが、パキスタンの二人も同じ扱いであった。中国公安もよほどひまを持て余しているのだろう。ここから先は下車禁止。小便くらいは良いが、写真撮影の為の停車は駄目、とのことである。ジープはクンジェラブ峠を下り、綺麗な水の流れる谷間に沿って走る。谷は次第に開け平原になっていった。この平原にもまばらに草が生えていて、放牧で暮らす人達の石造りの住処がぽつんぽつんと立っていた。タシュクルガンまで5時間かかった。
(写真はタシュクルガンの街角)道中同乗のお役人ナジームは良くしゃべった。人なつこいのかもしれない。その会話の中で、タシュクルガンから先のことを模索する。俺に任せて起きなさい、向こうに知人も居るから、紹介するから、と自信満々の返事である。半分当てにして、到着後彼にホテルに案内してもらった。中国系のホテルであった。時間は午後の2時40分。受付は無人。ナジームが大声で従業員を呼んでいたが、二階から眠そうな眼をこさすりながら、タジクの女の子が降りてきた。何か交渉しているらしいが、埒があかぬ様子。要は12時から15時まで休憩タイム、15時まで待たないと係りが来ませんです、はい。それで彼は中国タイム、申し訳ないね、と言って姿を消した。我々は受付でぼけーっと待っていたが、15時になったらしく、真っ赤なツーピースの制服に身を固め、胸に名札を付けた漢人の女の子が受付に入ってきて、泥ナマズのような顔の中程についてる金壷眼でジロリと我々を一睨みしそのまま奥の事務室に入っていった。暫くして出て来はしたが、我々を全く無視、ブリキ製の電話機をがちゃがちゃやっていた。その内ナジームが帰ってきて、他所に行こうと、我々を連れだした。この男案外正直なのかもしれない。現に今表に車(地元のタクシー)探して来ていた。 同じく同乗していた中年のおっさんはいつの間にか姿を消していた。連れて行かれたのは、タジク人が支配人をしている、パミールホテル。彼は一生懸命値段交渉までしてくれ、その上約束通りカラクリ湖へ行く車とガイドのてはいまでしてくれたのである。ただし我々の希望した、パキスタンへの入国資格を持ったドライバーはどうしてもみつからなっかた。明日はカラクリこ往復のみ。ここでもう一泊するはめになった。タシュクルガンは、女性は独特の民族帽子を被ったタジク人が目立つ、ホテルの従業員も彼女たちである。男はウイグルとタジク族の区別はつきにくい。そのほかにパキスタンから移住してきた人達や漢人も住んでいる。辺境の町であり、国境の町でもある。広い通りの両側にはポプラの並木になっていて、表通りにはコンクリートのビル?がならんでいて、その奥に土や石でこしらへた平屋があるのだが、屋根が我々の目線と同じくらいなので、意識の中に入ってこない。タクラマカン砂漠周辺のオアシスの形態とおなじである。ここからムスターグアタが北の空に浮かんでいるのが遠望出来た。明日も晴れてもらいたいものだ。8月25日(金)晴れてはいるが、雲も出ている。ムスターグアタは霞んでいた。昨日手配した、トヨタのピックアップで出かける。同乗者はウイグル人の運転手と、やけに柄のでかいガイド、それに我々4人。パミール高原を北に向かってひたすら走ること1時間半で湖に着いた。5年前に来たときと殆ど変わっていなかった。変わっていたのは、湖の畔にあった粗末なトタン張りの食堂が無くなり、100mほど先に新しくコンクリート造りの建物を建てて営業していた。それに入場料を300円取られたこと。ウイグル人もえげつなくなっていた。5年前来たときには、山はかすかにその陰が認められる程度であったが、今回はムスターグアタは時々かかる雲が頂上を覆うが、写真にバッチリ捕らえることが出来た。ただしコングールは中程から雲の中に身を隠していた。いったいこの辺の山は誰にににているのだろう。中華人民共和国人に似ていたら、こんなに恥ずかしがったりはしないだろうに。ムスターグアタはカラクリ湖からの写真が有名だが、北の方から眺めると、沢山の氷河が谷を造っていて、八ケ岳のような群山である。腹が減ってきたので帰ることにする。単調な平原を引き返す。ムスターグアタが徐々に徐々に遠のいていった。10時過ぎホテルに帰り着き、一服の後食事に出かけた。通りに面した食堂の前庭で、シシカバブとビール、それにうどんを食べる。すぐ横でシシカバブを焼くおっさんがこちらに向けてウチワをバタバタやるものだから、煙くてかなわぬが、香ばしい匂いも捨てがたく、燻されたままになっていた。30pほどの金串に、親指の爪くらいの羊の肉を突き刺してある。ふくよかなカアチャンがオッサンの焼くかたわらでせっせと拵えていた。ウドンはトマトの入った五目スープにチギリ緬を入れた、チューピエンズと言われるシルクロードの定番である。午後は小さなバザール見学かたわらお買い物。クルミ1キロ 32元(480円くらい)干しブドウ1キロ
16元 揚げ空豆 1キロ 12元 でした。かくてカラクリ湖見物は終了したのだが、帰りの手当がどうしてもつかなかった。ガイドのナウシャッドには今日帰る約束で出てきたのだが、今日は帰れそうにない。それで彼にその旨連絡しようと努力したが、パキスタンに連絡するすべが、電話を含め皆無であった。仕方がない彼らもこちらの状況ある程度想像しているだろうから。それにしても不便な処である、パキスタンに入れる資格を持ったドライバーはカシュガルに待機していて、タシュクルガンにはいないようだ。それでバスで帰ることにしたが。今度はその乗車券を何処で、何時入手できるのか、聞く人によってまちまち、ああだこうだと情報が交錯したが、結局ホテルのマネジャーの言う、発売は当日朝6時売場は交通ホテル横、が一番正しそうなので明日朝に備えナジーム推薦のタジキスタン料理で精をつける。そのメニュウは、まずビール5本、パイ酎1、ヒツジの炒め物、鶏肉のシチュウー風、チューピエンズ、トマトとキウリのサラダ(トマトとキウリをスライスしてあるだけ、これに適当に塩を振りかけて食べる。)で合計135元(5人分)でした。
8月26日。
(写真は中国とパキスタン国境の検問所)今日は何が何でも帰らねばならない。朝5時半にホテルを出て切符売り場に6時前に行くが、売場は閉まっていた。30分ほど待たされて発売開始。やっと順番がきたら、外国人はもう少し後で、とのこと。パキスタン人は外国人ではないのか。切符を買ってバスに乗ったのが7時過ぎ、乗客は8人。このままだと楽なのだが、と思っていたら、税関に来たら、荷物を山積みににしたパキスタン人が群がっていた。通関で待たされること40分、荷物検査も終わって係員にパスポート提示したら、そのまま通れと言われ、なんだかホットして表に出てバス乗り場に行くと。そこには持ちきれないほどの荷物を抱えたパキスタン人が群がっていた。そして通関終えたのが次から次ぎへと荷物の山を増やしていた。パキスタンのバスの屋根には大きな荷台がついている。そこにこの荷物を積み上げようと、作業が始まった。わいわいがやがや、屋根の上の二人の作業員と下の荷主の喧嘩腰のやりとりがおおよそ3時間くらい続いて、作業は終焉に近づいた。いよいよバスの乗車開始である。それまでただぼんやり眺めているだけだった我々にも出番が来た。バスの切符は多分定員販売だろうけれど、当てにはならない。立ち席で帰らされたら大変である。その恐怖からパキスタン人に負けてなるものかと、押しのけかき分け、どさくさに紛れて前行く輩をけ飛ばして、ようやく席を確保した。バスは満席、になったが、それだけではなかった。荷台に積みきれなかった分、車内に持ち込み始めた。屋根には4トントラックに一杯分積んであるのに、車内も荷物であふれかえってしまった通路も荷物の山。表に出るのに網棚にぶら下がってでるありさまである。よくバスが荷物に耐えられるものだと思ったら、両サイドの座席の下に太い鉄パイプが通してあった。バスが出たのは11時半、そして1キロほど走って検問所で止まった。漢人の公安員が車内に乗り込んできて、パスポート確認、それでOKと思ったら、さにあらず。今度は乗車名簿(切符売り場のでの発売数に基づく)を持ち出し、一人一人名前を呼んで確認しだした。それでもまだ出発許可が出ない。その内日本人出てこい、と言われ、下車すると、公安員が、」おまえ達のパスポートに出国印がない、ここから引き返せ、ときた。長々と何かやってるな、と思っていたら、これが原因だったようである。切符購入者と通関人数が会わなかったようだ。”なにをぬかすか、俺達通関の時、わざわざパスポートを係員に見せているじゃあないか、そのまま通れ、と言ったのはおまえ達の方だろう”と米山隊長の抗議。これは英語で言ったのを小生翻訳しました。これで相手は自分たちの非を悟ったのだろう、上官らしいのが出てきて、日中友好のため本日はこのままお通り下さい、とのご託宣、やれやれである。結局50分止められて、やっとスストに向け出っぱつ。バスは壊れたフイゴのような音を立ててあえぎながら、峠に向かってよたよたと走っていった。
スストに着いたのは午後7時半(パキスタン6時半)14時間の旅でした。