村と人
  
・・ミスガル村のアミール・ベイグ「37歳」・・おしゃべりおじさん
ミンタカ峠でのポータは、スストを出てすぐのミスガル村「キリック川沿い最終村」で、ジープ止め約1時間ほどでポータ12名、ロバ6頭を雇用した。ミスガル村は120家族人口1200人、緑豊かな村であり丁度麦の穂が黄色く頭をたれ採り入れ寸前、家々の庭には杏とりんごの木が多く、村の側道には澄んだ水が流れ、家も立派でかなり裕福な村に見えたし事実そうであった。
ガイドのノウシャッドが村人と交渉しているとき、1人だけカッターシャツにズボン、手に書類持ちてっきり村長かと思った男が、アミール・ベイグであった。(写真はジアラットで勢揃いしたポ−タ)
 頭の後ろが禿げておりかなり年配かと、思いきや37歳と元気の盛りである。この男キャラバン開始早々、横にきてとにかくよくしゃべる。以下その会話から抜粋。
アミール・ベイグ・・「自分は先生で数学と科学を教えている」・・雨宮・・「学校は休みか」・・「イエス」・・「ミンタカ峠付近に詳しいか」・・「イエス、あの辺は詳しい」・・「何回行ったか」・・「覚えてない」・・「ミンタカ峠は昨年まで入山禁止のはず」・・「関係ない俺はミンタカ峠に行ったのではない。アイベックスを追いかけてるうちにたまたま行っただけである」・・「アイベックスをどうするのか」・・(捕獲?)・・「射殺と訂正あり」・・グルカワジャ・ウルウイン氷河付近の山の名前を知っているか」・・「イエス。ミンタカ・ピーク、イタンとあり見えたら教えてあげる」・・「そのほか名前はないか」・・「ないすべてミンタカピークでよろしい」・・「それらの山はすべてパキスタンエリヤか」・・「イエス」・・日本人はミンタカに何人来たか」・・「今年は甲南が始めてである」・・「昨年はどうか」・・「ワンパーティーと、ソロの義足の人がき来ただけである」・・ほか省略。
英語は上手で便利な男が見つかったと思ったが休憩時もよってきて話かけられるのには閉口し離れて休むようにした。サーダが別におりこの男はポータであった。彼は甲南隊がミンタカ峠に行ったとき当然のような顔をしてついてくるではないか。
 恐らくノウシャッドが彼に売り込まれて特別の雇用をしたのだろう。途中キャンプ場で望遠鏡を貸してくれ、夕方5時位からアイベックスを見せてやると毎日眺めていたが、僕がつけたあだ名「アイベックス・キラー」に恐れをなしたのか1匹も見えなかった。
ミンタカ峠から下山し、スストのHTLでの晩飯時のウエイターが丁度ミスガルの出身で、彼にアミール・ベイグのことを聞いたところ「私の先生である。又村には貧困はないと誇らしげに語りその理由はフンザと違ってミールの支配が無かったから」と言っていた。
 
・・スペンジ村のニガバン・シャー26歳・・陽気なニイチャン
(写真はニガバン・シャ−の家族と親族)
彼は甲南隊がスストのHTLに帰ってきた日にノウシャドから紹介された。
 初見の印象は非常に張り切っており、自己紹介第一声は「昨年ドクターヒライ」とイルシャッド峠に行き、付近に詳しいであたた。
スストから出発した日は雨で薄着の我々は寒く参ったが途中彼の家でお茶の接待を受け、家中あげての歓待には感激であった。寝室、居間、食堂兼用の布団を敷き詰めた20畳くらいの部屋は天窓がひとつだけで、薄暗くパキスタンで民家に入ったのは始めてで、珍しく良い経験をした。出された卵焼きがうまいというと、もっとどうぞと更にでてくる。彼の嫁さんと小さい子供、いとこ、母と何がなんだか分らぬが、あの全員がこの家に住んでいるのだろうか。
 1時間ほどで退去し全員の見送りを受けジープでジアラットに向かう。
彼は牛3頭、山羊32頭、鶏5羽、ヤク2頭を個人的に所有しているそうで、それは多い方かと聞くと村人の平均的所有と答えた。個人的とは父親は又別途所有してるらしく、家畜は家族単位でなく各自所有のシステムらしい。
 村の家族数は32家族、人口は215人くらいと聞く。
この助人はアリ・ムサを尊敬しており彼に登山技術を習わんと必死だが、クランポンももっておらず、パッキリ・ピークのルート工作も急斜面でアリ・ムサに下るよういわれ可哀想だが仕方がない。
それでもファザール・カーンにクランポンを借りて米山君達とパッキリ・ピークの頂上を踏み大満足の様子であった。
いつも「ニコニコ」呼ぶとイエッサーと飛んできて何なりとどうぞであり英語もまあまあ、スペンジ村のエリートらしくポータ達もそれは認めているようだった。
下山後、ジアラットでポータ、ノウシャッド、ニガバン・シャーが車座に坐り賃金の各自計算を始め約1時間かかったが、その間大声出すポータ1人もなく支払いが終わると全員が我々に抱きついてお礼を言ったのは彼の人徳だろう。
もう1人印象に残ったのはファザル・ラン・マンという米国の俳優、メル・ギブソンに似たハンサム男、以前にラジオに出演していた元歌手で、キャラバン中の夜彼が歌ってるのを聞いたが、焚火の煙と彼の美声が星空に吸い込まれ、歌の意味不明ながら胸打つ旋律であった。
 ジアラットで賃金を受け取った後、迎えにきた息子の手を握り2人で嬉しそうに家に向かう後姿は実にほほえましかった。
 
・・ジアラット・・
 永住村ではなく「祈りの場所」とされており、周囲に旗がはためく聖廟がありすぐ横に集会所と宿舎兼用の大きな建物があった。
 日を決めて近在の村から「お祈り」、、安産 健康、、にやってくるそうで丁度甲南隊がついた日がそうであった。
 その日はここがキャンプ場であり、テントを張り終えたとき、ニガバン・シャーがやってきて集会所にきてくれという。固辞したが彼の親父様「82歳最長老」の招待で断りきれず甲南隊ほか7人で出向く。建物内部は暗く、なにをするのかと思えば「おやつ」をご一緒にであり、、時間が3時であり出された食べ物はチャパティーとスープだけで勝手解釈、、車座に坐って頂く。始めから終いまで恐ろしく静寂で黙って食べてそれで解散と何かの儀式のようであった。(写真はジアラット聖廟)
 米山君は聖廟にと700ルピーを寄進する。
 ニガバン・シャーの話では、キルギスから年間150人くらいがここにやってくる。
ジアラットまでは許可が不要で、キルギス人はキルギスから3日か4日で来る。
 もってくるものはヤク、牛、山羊で、もって帰るのは、日用品とケロシンである。
 ヤクは1年もの4000ルピー2年ものが6000ルピー成人ヤクは8000ルピ以上と聞く。

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