・・出発・・                           
 
8月7日3時間遅れの飛行機が、成田を飛び立ったとき、まず聞こえてきた機内放送はイスラムの祈りの声、これで3年続きのパキスタン行きであるが、イスラマバードまでの 2回の機内食を思うと憂鬱になる。酒を飲まぬ僕は食事時のスプライト、コーラは我慢できるが、何回食ってもうまくない
 チキンとインディカ米主体の献立には、飽き飽してるので空港のコンビニで弁当を買うつもりが面倒臭く、手ぶらで乗りこんだことを後悔したが後は我慢しかない。
 北京についたら今度は給油パイプトラブルで3時間ほど動かず、機内蒸し暑くやりきれない。非常口を開放してやっと涼しくなったが、20時30分「日本時間」ごろ例によって選択不可能「1種類しかない」機内食があてがわれたが、食べずに眠ってしまった。予定現地着時間21時ごろの飛行機が、イスラマバードについたのは翌朝の深夜3時20分、迎えのガイドサディークが「お疲れ様」と流暢な日本語で挨拶する。 車で毎年同じマリガヤHTLにチェック・インし、即、バタンキュー。辺境にいくにはまず飛行機からしてしんどいが、これで厄払と納得させて朝、今回現地一切の手配を頼んでいた、ニッパ・トラベルに行けば、「督永さん」が今年は雪が少なく、甲南隊が対象としているイルシャッド・峠付近の山はおそらく雪が無いから、ミンタカ峠にある氷河源頭のこの山を登ればと、僕が持参した写真を見て話される。
 この山、日本での写真判定では登れそうに無い山であったが、小さい写真でルートが
判断できず、現地で偵察と決め不謹慎な話だが、パキスタン着1日目で登山対象が不確定 になった。

 
・・ミンタカ・カシマ5800m?・・
8月11日。ジープ終点のアラーム・ダリッチからキャラバン開始。15日ミンタカ峠に着いたがその間グルカワジャ・ウルウイン氷河を詰め2回偵察したが、ミンタカ・
カシマ「双耳峰で甲南が命名」は下部岩壁のルート工作が難しく断念、可能性考慮して12人のポータとロバ6頭で運びあげた装備、食料を又持って下山となった。
 救いは14日夕方後発参加のハイ・ポータ、アリ・ムサがイルシャッド、雪、アルと覚えたての日本語で我々を元気ずけてくれたことである。
 彼は甲南隊が2泊3日で来たBCまで、8時間でで来たそうですぐ前にブロード・ピーク「8047M」を登頂していて、高所順応はできてるとはいえあだ名、新幹線そのままの快足には驚く。帰国後ニッパからのメイルで知ったが「ミンタカ・カシマ」にK2経験の精鋭がアタックしたが、下部岸壁部落石雨あられで敗退とあった。
(写真はミンタカ・カシマ  双耳峰)

・・パッキリ・ピークH5220M  ボボン・ピークH5180M・・
8月17日。ミンタカ峠から下山しスストに戻り、必要品購入
8月18日。ジープで出発、KKHから分かれチャプル・サン川に沿って走りジアラット
8月19日。ジアラットーズイウルトウ
8月20日。ズイウルトウーBC設営。H4250M付近
 BCで持参の写真と地図を照合したがどうも腑に落ちない。始め甲南隊がイルシャド峠と確定していた峠が、現地ポータ、ガイド、アリ・ムサ達は「ノーNO」ディス イズ キルギス・パス。イルシャッド峠は「ライト、ライト」と言い、間違いを認めキルギス・パスに前進テントを設営し、左・右両方のピークを登ることにした。・・・概念図参照・・ボボン・ピークが当初目標
8月21日。キルギス・パスにテント設営終えたのは10時30分、天気良く今日中に登ろうとパーティを二つに分け、米山、池内、アリ・ムサ、ニガバン・シャーはパッキリ・ピークに雨宮、飯田、ファザール・カーンはボボン・ピークに向かう。



ボボン・ピーク・・ボボンはワハン地域の男子名と聞く。

 パッキリ・ピークは前進テントからほとんど頂上まで見えたが、ボボン・ピークは前山が邪魔して頂上は見えない。
 ただBCからみた感じでは5659Mとは思えず、事実頂上での高度計は5180Mであった。(写真はベ−スキャンプ 後方はキルギス峠、右がボボンピ−ク左がパッキリピ−ク)出発してずっとオーバ60には一番応えるガレ場の登りであり、時々雪の上を歩くとほっとする。右手に岩稜が適当に現れこの上を歩くときはガレ場と違って後ろずさりがなく楽であるが、岩稜はすぐなくなり、又ガレ場でだんだんピッチは遅くなるが息切れはしない。
 ヤバ場はまったく無くただ歩くのみ。テント出て1時間50分で平坦な雪とガラ石の頂上に着いたがピッケル、クランポン、ザイル使用は無くまったくの拍子抜けであった。
 それでも頂上から眺めた、アフガニスタンの山、広大に続くパミール高原、憧憬のワハン回廊、直下のイルシャッド・峠、カンピレ・ディオールと無風快晴の中30分ほどぼんやりと景色に見とれていた。(イルシャッドも人名だが現地の人はヒュック峠ともいう。)
  ポータの一部は峠といわずサン・セット・プレイスといっていた。
前進テントに帰り明日は又、隊を分け米山達がボボン・ピークに、雨宮達はパッキリ・ピークに登る事にして休んだが、夜半から降雪しきり朝も降り止まず下山した。たった1日の天気だが実に幸運であった。前進テントの場所はやや傾斜していてあまり広くなく、一番懸念したのは、パッキリ・ピーク「最大傾斜40度くらいの全体が雪の斜面の山」の丁度真下であり、雪崩て当然の場所であったこと、アリ・ムサにそのこと話すと、山の斜面の形状が北側に傾いており、もし雪崩てもテント場は安心という。しかし僕は納得できず念の為テントの前にポールを立て20センチの場所に目印をつけ夜中2回観察したが、幸い20センチにならず安心、しかし朝も降り止まぬ雪を見て早々に撤収は正解だった。
 BCへの下山時は正直空しかった。地図と一枚の写真で決めた登山対象は失敗であり現地の人、ガイド、アリ・ムサ達は口々に、地図もガイド・ブックも他人から聞いた話を書いているだけで間違い多い、我々は実際に行って見て知ってると完全に1本とられた。

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