峠と川               
 
・・ミンタカ峠・・キリック川・・ミンタカ川・・
ミンタカとは千匹の山羊の意味と聞いたが、日本人では大谷探検隊が1902年に越えてから訪れた人を聞かず99年未解放地域から開放され「督永サン」が99年6月に行ったと聞いた時、僕も行こうと決めたのは昨年のことであった。
スストからキリック川沿いのミスガル村には古い英軍のポスト・オフィスと気象測候所がありさすが大英帝国と感心した。パキスタンでは上等のジープ道をエンジンの音とガンガン鳴ってるアップテンポな音楽とは反対にジープは時速20K位で走りアラーム・ダリッチに。ここに古いフォト「城址」があり現在パキスタン軍の駐屯地になっている。1937年にフォトを作った人の名前が地名と聞く。
 ここからキリック川を詰めてムルクシに、ここで川は二つに分かれ、左はキリック峠に通じるキリック川、右はミンタカ峠に通じるミンタカ川となる。キリック川に沿って道があり、上部は放牧に最適の場所であり、陸軍の訓練用の山があると地元の人にきいた。(写真はミンタカ峠からパキスタンの山)
 ミンタカ川を詰めて峠までの道は、古きシルク・ロードであり、キャンプ場、水も豊富で放牧のヤク、牛、山羊達の天国である。
 始めの2日間は、上高地から横尾まで梓川沿いに歩くのと同じで、歩けども、歩けども標高はさっぱり稼げず、おまけにワン・ステージが短くミスガル村のポータ達にはおいしい稼ぎ場である。
「ちなみにバルトロのワン・ステージは約5時間くらいで賃銀は1日240/260ルピー、ここは1日3時間くらいで賃銀は約倍と聞いた」
 ムルクシには川原にヘリ・ポートがあったがポータに聞いたところヘリなど見たことが無いといってた。
 キリック川、ミンタカ川とも川原は広く草地と樹木が点在してる。ミンタカ川はH4150m付近で、水の流れは消え上部からグルカワジャ・ウルウイン氷河のツンゲが灰色のモレーンと氷のミックスで見えるが、懸垂氷河ではなく氷河の状態良く最上部まで傾斜がゆるいので詰められそうである。
 この辺から川幅は狭く氷河左岸沿いに5500m以上の岸壁と雪の鋭鋒がそそり立つ。
ミンタカ峠にはこの氷河から離れ、ガラ石の山腹をへずっての道がはっきりついており、登りきると突如平坦な場所に出る。黒部五郎のカールに似ていて草地に大きな石が点在し、幅1mくらいの清流が流れており別天地の感じ。数千年の昔から峠への登りに疲れた人達はここでしばしの休息をとったのだろうか、天が与えた憩いの場所である。
 平坦部は歩いて15分くらいで終わり、今度は草1本無いガラ石の丘にでる。
ここにミンタカ峠の石標が3本離れて建てられており、パキスタンと中国と刻まれている。中国側はなだらかなパーミール高原であり、真下に中国のチェック・ポストらしき小屋が見えるが人影などまったく見えない。KKHの開通でミンタカ峠など越える人無く、そのうち道は荒れ果て廃道となるだろう。
          
・・キルギス峠・・チャプル・サン川・・
(写真はチャプル・サン川沿の山)
チャプル・サン川流域は1993年外国人に開放された。
チャプル・サンとは「何をおしゃてますか」の意味と聞いたが遠くキルギスからワハンとイルシャド峠を通過し、パキスタンにやってきたキルギス人とパキスタン人との再会の挨拶だったのだろう。
 この川の幅はキリック、ミンタカ川よりはるかに広く川沿いに5つの村もある。上流3400mを過ぎると右岸「南」にヤシュクック・ヤズ氷河、コズ・ヤズ氷河が見えてくる。この辺からの景色はすばらしく、コズ・ピーク、シンナラ、シャングレーほかピラミダカルな鋭鋒が氷河から一気にそそりたつ。
 ズイウルトウ付近で川の流れは消え、コズ・ヤズ氷河が押し出し、流れの無い川の左岸沿いにチリンジ・パスへの道が通じている。チリンジ・パスは標高5247mとありコルまでびっしりと雪が詰まっていた。この峠の右手「東北」に美しい円錐形の山があり地元では「ビアタル・ピーク」と呼ばれてる。・・・6000M未満?ズイウルトウから道は分かれ右「北」に急登となるがが登りきって又川原に下る。この川は特に名前ないがキルギス峠とイルシャッド峠に通じる川原の道である。但し増水時には渡渉が大変だろう。
 氷河は無く上部では二つの峠への道はいずれも山腹の高撒き道「谷左岸」を行く。
 キャンプ場は4250mから上には良い場所は無い。キルギス人の往来あるかと期待したが途中会った人はすべて地元の人だった。
           
・・バブサル峠とカガン渓谷・・
予定より早く計画が終了したので、イスラマバードへの帰路を変更しチラスから古いシルク・ロードをジープで走ることにする。
 チラスは暑い場所で、池内は暑いと夜中タイル敷きのトイレの中で寝ていた。ジープはKKHから分かれチラスの町のある丘の上にあがっていく。道の両側に枕木状の角材が野積みされており、後でわかったがチリ「松の一種」という木でこの地方の特産品であった。しかしジープ道の両側の斜面のチリの木は無惨に切り倒され若木があるだけ、この木の恩恵を受けるのはニ世代先だろう。KKHが完成する前はパンジャブ高原からギルギットにいたる唯一の道だったと聞くがオフロードのジープ道は猛烈な悪路、走ると言うよりジープを転がす感じで、ナランまでの92K走行に要した時間は9時間強、チラスからバブサル峠まで最初はチラスに向かう数台の車を見たが以後無し。バブサル峠は4563Mとあるが高度計では4155Mであり一体どちらが正しいのか。
大きなケルンがあるだけで峠からの眺望は岩と砂だけ、ナランの方向は緩やかで、下りはカガン渓谷に沿って緑豊かな景色に一変、道も良くなりほっとする。後で聞いたがバブサル峠付近は治安悪く鉄砲持った現地人を見たのは自衛のせいか。ナランには、芝生と樹木の川沿いの平坦地「徳沢に似てる」にPTDCのHTLがありここに泊まる。(写真はバブサル峠からカガン渓谷)
ナランからバラコットまでは広い道だが、至るところで道路工事が行われており、立派な道になるだろう。バラコット市はさすがに大きく緑豊富で朝起きて見た山にはモヤがかかり、市内にはクンハール川が流れていて山沿いの温泉町の感じがした。
 チラスからバラコットまで190kをジープ走行14時間30分かかり疲れた。
               
 辺境の峠で     
詩人尾崎喜八の「峠」という詩の終章でうたわれている
    風は諏訪と佐久との西東から
    遠い人生の哀歓を吹き上げて
       まっさおな峠の空で合掌していた
 この素晴らしい詩の舞台は、八ケ岳の夏沢峠と言われる。
 峠という字は、山と上と下を組合わせた日本国語であり、この言葉のもつ概念は山里と山里をつなぐ人馬往来のみち、又は野麦峠に抱く女工哀史等いずれも「人のによい」が付きまとう。
 例外は、針の木峠、三伏峠であり標高高きがゆえに自然条件厳しくここには人間臭さは感じられない。
今回ミンタカ峠、キルギス峠、バブサル峠にいて感じたことは、どこにも「人のによい」がない、4500m以上の過酷な自然の中では、哀歓と歴史とロマンが込められた「峠」など   と言う甘い感傷は一切なく、そこにあったのはヤクやロバに荷物を積んで、現地の人が必  死の思いで越えた場所という感じだけである。数千年の昔から人々が往来したハーブの香りのむせぶ古きシルク・ロード、その踏み跡を辿りミンタカ峠に至ったのになぜか感慨にふけることが無い。それは厳しい自然のうちに生まれた思いであり峠は移動上の通過点に過ぎず、身を守るため一刻も早く立ち去るべき場所だからだ。
 英語のPASSが意味するのは「通過」であり、峠は単なる通過点に過ぎず中国語の山口「峠の意」にこめられた、谷の向こうは人間社会と隔絶した恐ろしげな場所、かように人がもつ峠への概念が 世界各地で違うのは、和辻 哲朗が著書「風土」で謂う人間の精神構造はその地の風土から刻みこまれるいうことか。
 形状からも日本の峠は「たわ」「窓」「乗越」「鞍部」の言葉の意味するように登りきって下るイメージがあるが、ミンタカ峠、バブサル峠などはこのイメージとまったく違い、  登りきった場所が広大でどこが峠なのかわからない。
 日本の風土に育った僕は今回のパキスタンのそれぞれの峠は、出発前の思いでは、歴史とロマンの回顧などと甘い感傷に浸っていたが、現地で実際に峠にいて無風快晴という最高の状態の中でも、日本の峠とは違う、それは単に周囲の景色、スケールだけでなく、わかるはずもない異国の風土と希薄な酸素の影響だったかも知れぬ。

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