「小川守正・伝 登山家から危機突破の経営者になった旧制甲南OB」(抄録)

著者:福井俊郎 (旧26回理) 発行所:旧制甲南会 発行日:2024年3月15日

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はじめに

第1章 甲南山岳部で活躍する

 1923年5月に、旧制甲南高等学校が平生釟三郎の教育理念を基盤にして誕生した。尋常科4年(中学校に相当)と高等科3年の7年制であって、徳育と体育に重きをおき個性を尊重する少数教育が行われる。第1回校友会の席上で、中学2年生の香月慶太(旧5回文)の発言が皆の賛同を得て遠足部が誕生する。翌年には、六甲山を歩き回る。生まれて初めてのテント生活とロッククライミングを経験したのもこの頃のことであった。2年後には「山岳部」に改称される。

 1926年夏には、部員7名が山岳部として初めて北アルプス入りをして、いきなり燕岳から槍ヶ岳への縦走に成功。その冬には、越後關温泉でのスキー合宿が行なわれる。日本に輸入されたばかりのピッケル、ザイル、登山靴などの近代装備を備えて、科学的登攀が行なわれた。前穂高岳奥又白側の岩壁や滝谷の岩稜は、いずれも昭和初期の甲南山岳部の開拓にかかったものであり、今もその名称が残されている。甲南山岳部は岩登りと積雪期登山に24ものバリエーション・ルート初登攀記録をつくった。1930年、山岳部OB会として甲南山岳会KACが発足すると香月が会長に選ばれた。山岳部では最盛期には100人近くも部員がいた。

 小川守正(旧17回理)は、1934年に甲南高校尋常科に入学して直ぐに、肺結核で1年生を留年するが、2年生のときに彼は山岳部に入部して、持ち前の体力と気力を発揮して活躍するようになる。4年生のときには塩野良之助と組んで、ジャンダルム第1段の北壁に登攀する。伊藤兄弟が初登攀した前穂高の北壁に、小川は高等科1年と3年と戦後の併せて3回登る。1936年には、赤松二郎、福井實と組んで、剣岳小窓尾根側壁の積雪期の初登攀に成功。また、同じメンバーによって、1941年春に不帰岳第一尾根にも初登頂。小川は落石と雪崩によって2度も大きな負傷をしたが、山岳部生活で精神と肉体を鍛えることができた。

 しかし、国際状勢が厳しくなってきたので、これまでの校友会が新しい報国団に移行される。山岳部は新体制に合わないという理由で、「剛健旅行班」に組み替えられることになる。部員たちはこれに反対して、部室の前にKONAN ALPINE CLUB という看板をあげて自主的な活動を続ける。自由勝手に山へ登ることが続いたが、自治組織の母体がなくなったために、溌溂として生きていくものが無くなり、同好会的な傾向に流れて行く。

 小川の最後の1年間は、空虚な味気ないものになり、彼は朝に家を出て、意味なく裏山をぶらつき、映画に行ったり、飲みに行ったり、出席ままならぬ怠け者になってしまう。翌年3月には、何とか高等科を卒業できたが、学校教練では「帝国陸軍の将校には適さないが、兵としてのご奉公に励むように」という不合格の通知を受ける破目になる。

第2章 混乱の渦に巻き込まれる

 1933年、京都帝国大学で「瀧川事件」があった。翌年2月、7人の山岳部員を含む甲南高校生9人が、治安維持法の違反容疑で検挙される事件が起こる。資本論の読書会を開いたとか、青年共産同盟の機関誌を持っていたという程度のことだったが、甲南高校の学舎である「白亜城」にちなんで、この事件は「白亜城事件」と呼ばれて世間で騒がれた。平生校長が生徒の早期釈放を強く要請したので、彼らは間もなく解放された。平生は、「学生のときは多くの思想を学ぶときだ。今は実践活動を止めて勉強せよ」と諭しただけで、特に処分をしなかった。山岳部に対しても部を解散させることなく、1年間の部員募集禁止だけにとどめた。

 1941年、開校してから23年間にわたって甲南高校生を育てあげてきた校友会が、突然に解散させられ報国団に移行する。「自由甲南は消滅してしまった」と小川は嘆くのであった。戦後間もなく、天野校長は甲南学園を追われるように去り、一高の校長に赴任した。甲南高校は、折からの学制改革もあって、ひどい混乱の渦に巻き込まれてしまう。

 その間にも山岳部の活動は続いていた。1947年の積雪期、小川は、奥田泰三、中村忠雄、福井亨を引き連れて、徳沢園からの前穂北尾根のラッシュ登攀を行った。登攀中に天候悪化に遭遇しながらも前穂頂上を極め、緊急雪中露営でこれをやり過ごし、翌日自力で徳澤園に帰還した。壮絶な記録であり、山岳雑誌に発表されたこともあって当時の山岳界で話題になる。

 戦後の学制改革によって、甲南では新制の中学校と高等学校が発足し、旧制高等学校は、1950年に最終学年の生徒を送り出して閉校した。激しい産みの苦しみを経て、1951年には、甲南大学が文理学部だけの小さな4年制単科大学として誕生する。この年に入学した学生は文学科109人、理学科46人であった。

第3章 九州帝国大学航空工学科では

 小川守正は、甲南高校の物理の時間に飛行機が空を飛ぶ原理を教えられ、飛行機に対する強い興味が沸き上がってくる。スポーツでは山登りを選んで活躍したが、人生の目標として、彼は飛行機の設計者になるという固い志を立てる。九州帝国大学工学部航空工学科に入学したが、大学の講義に飛行機の話はまったく出てこない。応用数学とその応用である圧縮性流体の力学とか、粘性体の力学をいきなり叩き込まれて驚いた。

 その間にも戦時体制が進んで、2年生が終わった段階で突然に1年繰上げて大学を卒業して、直ぐに就職せよということになり、海軍機専門の川西航空機会社に行くことが決まった。

第4章 川西航空機で面目をほどこす

 川西航空機会社に在職したのは、わずか7ヵ月半ほどだったが、小川の生涯の中でもっとも充実したものの一つになった。ある日、341空航空隊から大変なクレームが持ち込まれた。発動機筒温過昇で離陸出来ない戦闘機「紫電」が続出するというのだ。問題解決のために熟練整備士数名と小川が部隊へ行く。

 エンジンを始動して回転を上げて行くと、フル回転に達する前に筒温度の針が振り切れてしまう。フル回転に上げないと離陸馬力が出なくて離陸できない。せっぱ詰まった小川の頭にふと浮かんだ案は、「水で冷やせば良いではないか」ということで、さっそく実験に取りかかる。結果は成功であった。数日後には、水空冷式オイルクーラーに水を吹き付けながら、次々と飛び立つ紫電の雄姿に、彼は思わずバンザイを叫んだ。小川は海軍と会社から表彰され、面目をほどこすことになる。

第5章 敗戦で夢が消え去る

 1944年10月初めに、小川は突然に召集令状を受け取りあわてる。海軍事務所に相談して、飛行機整備科予備学生に応募することになり、試験に合格した。大阪駅で親戚や山岳部の後輩に見送られ、勇躍征途についた。その日の夜には相模野練習航空隊に入隊する。飛行機整備科だから、その実習がはじまるだろうという期待が外れて、地上戦の猛訓練と地下兵舎の建設が続く。

 相模野に在職中では、ついに飛行機に触ることもなく、座学はもっぱら陸戦に関するものばかり、整備の話はまるでなかった。やがて卒業マラソンをすませて、それぞれが任地に向かう。小川は青森三沢の基地にある724空航空隊であった。そこで飛行機整備に携わるが、8月15日になり、夕食の席で、「天皇陛下は人道的見地から一時休戦を命じられた。だが負けたのではない。数年後には必ず戦争は再開される。直ちに家庭にもどり、再度のご奉公に備えよ」と伝えられた。小川は帰宅して驚く。家も家族も無事だということは知っていたが、周辺は瓦礫の山で、わが家だけがポツンと一軒残されていた。このようにして、小川が甲南時代から持ち続けてきた飛行機に対する夢は消え去る。

第6章 戦後の危機を乗り切る

 復員してからの10年間がまた大変な時代であった。日本全体が喰うや喰わずの生活に喘いでおり、小川も何とか職を得たいと思っていた。しばらく務めた自転車の町工場を首になる。1953年の夏、当時務めていた自動車会社に山岳部をつくり、そこで生まれた優秀なクライマーのU君と2人で、念願の前穂高岳の第4尾根に挑むことになったが、一番変化に富んだおもしろい岩登りであった。苦しい生活と劣悪な環境の中で、勤務先を変えるごとに職場の山岳部をつくり、若い人を仕込んでは、日本アルプスの岩場や雪山に挑み、心と身体のエネルギーの充実に努めるのだった。最後に6年余り勤めた昭和自動車も倒産の憂き目となる。彼自身も30歳を越えて、妻子をもつ身で大変な毎日だった。なけなしの退職金を食いつぶしながらのある日、組合員の就職を松下電器(現在のパナソニック)と交渉しているうちに、自分まで拾って下さることになった。

 入社した小川は猛烈に働き勉強もする。入社3年後には、社の品質管理の事務局勤務となり、品質管理の権威とされる。やがて研究所の勤務に移り、ここで本来の技術者として電子レンジの開発に携わる。これが経営者の道につながった。多忙の中でも彼は山を忘れることはなかった。乗鞍の山小屋で開催された甲南山岳会創立60周年記念集会に参加している。

第7章 松下幸之助の実践経営学

 松下幸之助社長には、世界の繁栄という大きな願いを追い求める高邁な精神と共に、常に世間の人々と同じ立場に立つという庶民性を併せもつ不思議な魅力があった。94歳で逝去するまで、生涯の大部分を現役として活動し、パナソニックホールディングス株式会社を育て上げた。

 事業経営において感じるのは、経営理念というものの大切さである。「この会社は何のために存在しているのか、この経営をどういう目的で、またどのようなやり方で行なっていくのか」という点について、しっかりした基本の考え方を持つということである。世界中の経営者で、松下幸之助ほど自分の理念哲学を世に訴えた人は見当たらない。松下電器が特に倫理観の高い人を集めたわけではないが、尊敬する親分に常に高い企業道徳を世間に訴えられたのでは、自らも厳しく処せざるを得なくなり、それが次第に体質になっていったのだろう。

第8章 電子レンジ事業の危機突破

 松下電器産業電化本部で、電子レンジ第1号機が生まれたのは1962年のこと。5年後には、住宅設備機器グループの一員として、電子レンジ事業が奈良県大和郡郡山市に展開する。当時の電子レンジは、大型冷蔵庫ほどの大きさで、業務用が中心。生産・販売も月数十台で、苦難の続くグループを牽引していくには力不足であった。小川の率いる電子レンジ部では、家庭用電子レンジを初めて10万円を切り、マジック・ターンテーブル、便利タイマー、縦開きドアなどに成功し業界を牽引する。

 大和郡山の同一敷地内にあった生産部と住宅設備機器研究所とが統合し、松下住設機器会社が設立され、小川はその常務取締役になる。小川が「経営の神様」といわれた松下幸之助から学んだ経営者の志というのは、経営理念の確立と浸透を実現することであった。そのために、基礎となる自然・宇宙観や人間観などを学んで、より本質的な経営者としての器量を養い高めていくことが求められた。経営者たらんとする者は、初級のリーダーのときから、「人には深い愛を、仕事には限りなく厳しさを」ということを、身につけるよう努力することが大切である。

 小川は、学生時代にロッククライミングと氷雪の山に熱中して、山と闘う登山をしていた。しかし、もう直ぐ定年になるのを機会に、今度は山を楽しむことにしたいと考えて、毎年1回、海外の4千メートル級の山へ登ることにした。手はじめに選んだのが台湾の玉山(戦前の新高山、3997メートル)。62歳の小川をトップにして、20歳代から40歳代の8人というバランスの悪い編成であった。1984年、小川は松下住設機器を退社する。会社敷地の一角には、「松下住設退職時記念碑」が建てられた。それには自筆の「仕事を楽しみ 人を愛し いつも明るく」という彼のモットーが刻み込まれている。

第9章 甲南学園が危機から救われる

 1991年に、小川は甲南学園の第9代理事長に就任する。このことを知った香月慶太は、「これで山岳部の名誉が回復した」と言って喜んだ。白亜城事件のことがあって、彼はかねてから山岳部の評価が必ずしも好ましいものでないことを、長らく本気で苦しみ続けていたのである。

 小川は、収入の80%で経営し、20%を内部留保にすることを、理事会、大学教授会、中学高校教員会と労働組合に提案する。厳しい情勢を切り抜けて、3年で内部留保が40億円余りに達した。

 正にそのとき、阪神淡路大地震が甲南学園を襲うのである。内部留保がなかったら、復興はかなり難しいものになっただろう。大地震によって、甲南学園では⒙人の学生・生徒が犠牲になり、大学の教室の70%と中学・高校の建物の80%が倒壊する。建物の損害は90億円だったが、国と自治体から30億円がいただけるとして、手持ち資金が40億円あるので、残りは何とか自分たちで出来るだろうと判断した。

 復興計画は予定通りに実行され、直ぐに仮設教室が建てられて、恒久施設は2年以内に完成する。授業の中断は2週間ほどで終わり、学生・生徒に大きな迷惑をかけることはなかった。大震災からの学園の再興に取組み、学園財政の活性化を図り、さらに被災した校舎を短期間に復興させるなどの功績を残して、小川は1998年3月末で理事長を退任する。

第10章 平生釟三郎とブラジル移民

 理事長を辞めたばかりの小川守正のところに、理事の上村多恵子(大15文)が訪ねてきた。用件は、平生釟三郎の伝記を刊行したいとのこと。小川は大きな共感をもつようになり、2人共同で執筆することになった。これが『平生釟三郎・伝 世界に通用する紳士たれ』を生み出すきっかけであり、同時に、2人が文筆家の道に踏み出す第一歩でもあった。小川は、本格的な物語を書くのはこれが初めてであった。しかし理科系の出身にもかかわらず文才に秀でていたので、一流の文筆家になるのにそう長くはかからなかった。

 出版を終わってから、小川と上村は、平生がブラジル移民の問題にどのように関与したかを実地調査するために、ブラジルまで調査旅行に出かけた。調査結果は、帰国後に出版した次の2冊の本で記述しているので、内容はそれに譲りたい。
  ・小川守正・上村多恵子『大地に夢求めて ブラジル移民と平生釟三郎の軌跡』神戸新聞総合出版センター  2001
  ・小川守正『昭和前史に見る武士道 続平生釟三郎・伝』燃焼社 2005

 平生は、多くの教育事業や社会事業のために単に私財を寄付するだけでなく、自らの人生と能力も投入した。80年の生涯を、家族のため、人のため、世のため、国のため、至誠をもって働き続けた。ブラジル移民のためには、新世界建設の雄大なロマンを心に秘めて支援を行った。

第11章 甲南病院が生まれ変わる

 甲南病院は、甲南学園と同じく、平生釟三郎が自分の理念に基づいて創設した施設である。設立された当時には、関西で唯一、日本では2番目の完全看護・完全給食の近代的病院であった。創業以来75年間、高い水準の医療機関として阪神間で評判が高く、多くの人の信頼を得ていた。しかし、経営は10年ほど前から悪化して、崩壊寸前の状態に陥っていた。その原因は、10年前に規模を3倍に拡大したのだが、その資金をすべて銀行借入に頼り、新規拡大部門の赤字を長期にわたって放置した放漫経営の結果だった。

 代々の理事長は、川崎重工(旧川崎造船所)の元会長が就任していたが、もっぱら名誉職であった。小川は乞われて副理事長に就任したが、その直後に理事長が死去した。直ぐに、後任理事長の選任と、20億円の支援を川崎重工に対して要請したが、いずれも拒否された。

 彼は、全従業員に経営状態を明らかにしたうえで、従業員と共に経営再建に取り組んで、危機を突破して再建の途につくことができた。ここまで成し遂げたのは、「敬愛する平生さんの作った甲南をつぶしてなるものか」という、小川の意地ともいえる強い信念があったからである。

 2008年に理事長は小川から平生誠三(大経40)に交代、さらに2020年に具英成に引き継がれる。その間に老化した病棟の全面的建て替え工事が完成し、病院名も甲南医療センターに改称された。平生釟三郎が「悩める病人のための病院」として創設して以来、一時は倒産寸前の危機に陥ったが、関係者たちの懸命な努力によって生まれ変った。小川守正は、復興した病院の姿を見ることなく、2019年に永眠した。享年98歳。彼の脳裏を最後によぎったのは甲南の2字だったのだろうか。

おわりに(上村多恵子)
略 歴
参考・引用文献

 

 以上は著者が甲南山岳会HPのために書いた本書の抄録で、現物はA5版54ページで、ここでは写真や図は全部省略しました。全文を読みたい方がおられたら、冊子の現物10部をHP担当の川村靜治さんにお渡ししてありますので、川村さんの方に連絡して入手して下さい。(福井記)

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