13 松方恭子編「妻に送った九十九通の絵葉書」−伊藤愿の滞欧日録― 清水弘文堂書房
   (2008年)
定価2100

 

   昭和初期に活躍した甲南出身の登山家・伊藤愿(19081956、昭和4年旧制甲南高校卒、同7
 年京都大学卒)の遺稿集である。今も愛唱されている甲南山岳部「山の歌」、ラグビー部部歌、野
 球部応援歌などの作詞者としても知られる伊藤愿さん(以下愿さん)は昭和初期の甲南高校山岳
 部の創成期に、北穂滝谷の単独遡行、小槍の単独登攀、5月の槍、薬師、立山縦走など数々の山
 行記録を樹立して、当時の山岳界に甲南高校山岳部の名を広めた。京都大学へ進学後も穂高ジャ
 ンダルム飛騨尾根、鹿島槍北壁の初登攀などの記録がある。

  そのころ既にヒマラヤに目を向け、パウル・バウア−の「ヒマラヤに挑戦して」を訳出出版(昭
 和
6年黒百合社および中公文庫1992年)。更に、当時ヒマラヤ登山には不可欠とされていた極
 地法登山を、我が国で初めて冬の富士山で実践し世に紹介。昭和11年には、京都大学のK2遠
 征計画の準備のために単独でインドに渡るなどの活躍があった。

  愿さんは、終戦後間もない昭和26年には、6ヶ月にもおよぶ欧州への官費出張の機会を得て、
 欧州アルプスへも足を延ばし、マッタ−ホルンの単独登攀(日本人として初めて)などを楽しん
 だ。この出張中に房子夫人に本書書名の所以となった“九十九枚の絵葉書”を送ったことを、後
 に甲南の後輩の田口二郎氏(旧制昭和
8年卒)が追悼文(日本山岳会「山岳」所載)で暴露して、
 山仲間の間で愿さんの愛妻家ぶりが一躍有名になったという経緯がある。

  本書は、「九十九枚の絵葉書」を冒頭に、同じ旅からの報告として「マッタ−ホ−ン単独行」(日
 本山岳会会報)、「アルプス1951年」(雑誌「岳人」)、「バウア−との会見記」(同)と
 続き、若き日の足跡として「山旅
(単独行)」「瀧澤谷涸澤岳登攀」(甲南高校山岳部・報告)があり、
 更に単独渡印の折の貴重な記録「滞印日記抄」(甲南高校山岳部・部内雑誌)なども転載されている。
 追憶として再録されている平井一正氏(神戸大学名誉教授、元甲南大学教授)の「AACK人物抄・
 伊藤愿さん」や田口二郎氏の「伊藤愿さんの思い出」(日本山岳会「山岳」)なども読み応えがある。

 さて、愿さん没後既に50余年の今、何故このような本が出版されたのか。ちょうど愿さんの
 生誕100周年、房子夫人の卒寿祝いという節目ではあったが、愿さんの次女松方恭子さんが、
 本書の編集を思い立つまでには、いくつもの偶然ともいえる人と人との出会いがあった。
 甲南がらみのところをご紹介しておきたい。

  何年か前、山岳部の先輩山岡静三郎氏(旧制昭和11年卒)が青梅の慶友病院に入院され、同
 じ病院に入院しておられた愿さんの未亡人房子夫人とバッタリ出会われた。お元気で面会可能と
 のことで、その年の暮に伊藤文三(旧制昭和15年卒)、平井一正先生(神戸大学名誉教授・甲南
 大学元教授)、平井吉夫君(新制昭和32年卒)と越田で、お見舞い方々愿さんのことなどお聞き
 しようと伺った。平井先生はちょうど京都大学士山岳会の機関誌
AACK Newsletter の連載記事にむ
 けて愿さんに関する資料を集めにかかっておられたので、いいタイミングだった。

  この日、「九十九枚の絵葉書」にも話が及び房子さんがおっしゃるには、愿さんが亡くなられる
 前の入院闘病中、これを原稿用紙に丹念に書き写された。後の活字化の意図があったのかも知れ
 ない。オリジナルはこともあろうに看護婦が知人に見せるといって持ち出し、タクシーに置き忘
 れてしまった。新聞広告まで出して探したが見つからずじまいで、労作の手書きの写しもその後
 だれかに貸したが行方不明のままだという。ところが、これが平井吉夫君の手許にあった。由来
 を辿れば、持ち出したのは田口二郎氏。愿さんの追悼文の執筆の参考にされたのかも知れない。
 それを日本山岳会の岡澤祐吉氏(「スイスの山案内人手帖」の著者)が借り出している間に田口
 氏が亡くなられ、岡澤さんはこれを甲南のOBで旧知だった飯田進君(昭和38年卒)に届けた。
 飯田君は自分が持っているよりもと思い平井君に託したというのが経緯。写しの書簡集は無事何
 十年ぶりかで平井君から房子夫人の手に戻って一件落着し、平井先生のお書きになった「人物抄・
 伊藤愿さん」は
AACK Newsletter(2005年3月号)に掲載され、それは甲南山岳会のホーム
 ペ−ジにも転載された。ここまでは伊藤家としては房子夫人どまりで、お子様方はどなたもご存
 知なかったらしい。

  次女松方恭子さんが親戚の方から、お父上ことが甲南山岳部のHPに載っている、と知らされ
 たのはHP掲載後一年以上経ってからだった。早速甲南大学の事務局から平井先生の連絡先を聞
 き出して連絡をとられ、あとは芋づる式に平井吉夫君と小生もお会いするに及んだ。古い甲南高
 校山岳部の部報や部内雑誌に掲載された多くの遺稿に初めて接した恭子さんは痛く感動された様
 子で、絵葉書の書簡集とこれらを合わせての出版を決心された。出版関係者の後押しもあり上梓
 され
房子夫人や山岡氏も大変なお喜びようだったと聞く。お二人とも昨年暮れに逝去された。


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